
陰陽道(おんみょうどう)は、もともと古代中国の自然哲学にルーツを持ちながら、日本で独自のかたちに育った複合的な学問体系。
現代ではほぼ「廃れた学問」といえるのですが、陰陽道を生業とする「陰陽師」が、映画・アニメ・漫画など和風ファンタジーの題材として人気なので、存在自体はよく知られた学問だと思います。ですが、もう一歩進んで「いつ、どんなふうに生まれたのか」という部分については、意外に知られていないかもしれませんね。
そこでこのページでは陰陽道の成り立ち・・・すなわち「陰陽道は、数千年の時をかけて少しずつ形になっていった」ということを、時代ごとの重要な出来事に分けてわかりやすく解説していきたいと思います。
陰陽道の出発点は、神話時代の中国にまでさかのぼります。伝説上の帝王・伏羲(ふっき)が八卦を創ったとされ、その後『易経』にまとめられました。これが、のちの陰陽思想と五行思想の基礎になったんです。
春秋戦国時代には、「陰は暗く静か、陽は明るく動く」みたいな陰陽の概念や、五行(木火土金水)の関係性が、占いや医術、政治思想として確立されていきました。
6世紀頃、「陰陽五行」の思想は中国や朝鮮半島を経て日本へ。とくに百済や高句麗の学者たちが暦や『易経』を伝え、これが日本の朝廷で重宝されるようになります。
602年には百済僧の観勒(かんろく)が来日し、聖徳太子に陰陽思想を教えたという逸話も。これが冠位十二階や政治制度の設計に活かされたと言われているんですよ。
飛鳥時代、天武天皇は陰陽五行を国家的に活用するため、676年に陰陽寮を設立しました。これは天文・暦・占術を専門に扱う官庁で、ここから「陰陽道」という言葉や「陰陽師」という職名も登場しはじめます。
このあたりから、陰陽道は「思想」から「制度」へと進化していくんです。
平安時代に入ると、陰陽道は仏教・道教・神道と融合しながら、本格的な宗教的・呪術的体系へと発展します。
特に9〜10世紀には、陰陽寮が学術機関として整備され、陰陽頭・博士・生などの職制も確立。ちょうどこの頃に安倍晴明が登場し、賀茂氏とともに陰陽界の二大勢力を形成しました。
陰陽道が「完成」したのはこのタイミングと言えるでしょう。
おもしろいのは、中国ではあくまで「陰陽五行」が哲学や学問として扱われていたのに対し、日本では「陰陽“道”」として宗教・芸道に近いかたちで定着したという点です。
「道」がつくあたり、日本の武道や茶道の流儀っぽいですよね。専門職として陰陽師が確立され、社会制度や貴族文化と深く関わっていったのは、日本ならではの進化でした。
五行要約