
平安の都に数多の神秘を刻んだ安倍晴明。その住まいがどこにあったのか、いまでも人々の興味を引き続けています。彼の邸宅はすでに現存していないものの、伝承と史料からある程度の場所が絞り込まれており、京都のとあるエリアにその「痕跡」が今も残っているんです。
このページでは、安倍晴明の屋敷跡とされる場所をめぐって、その歴史的背景や周辺の伝説をご紹介します。
安倍晴明の邸宅跡は、現在の京都市上京区晴明町(旧・土御門町)と考えられています。ここには1007年に一条天皇※の勅願で建てられた晴明神社があり、この神社こそがまさに晴明邸の跡地とされているんです。
神社の裏手や周辺には、当時の屋敷の規模をうかがわせる痕跡はありませんが、伝承に基づく地名や古文書の記述から、一条戻橋の北西がもっとも有力とされています。
※一条天皇(いちじょうてんのう)
平安時代中期の第66代天皇(在位986〜1011年)。在位中に藤原道長の権勢が頂点に達し、文化面では紫式部や清少納言らが活躍。『枕草子』『源氏物語』の時代背景となり、王朝文学の黄金期を象徴する治世とされる。
屋敷の位置については、平安時代や鎌倉時代の史料にも記録が残っています。
たとえば『今昔物語集』や『大鏡』などでは、「土御門口」や「西洞院北東」といった表現で、現在の京都ブライトンホテル南西あたりが指摘されており、町名としても「土御門」「菊屋」など晴明ゆかりの名称が今も残されています。
こうした地名の連続性が、「あ、ここ本当に晴明が住んでたんだなあ」という実感を与えてくれるんですよね。
晴明神社の境内には、かつての屋敷時代の面影を感じさせるモノがいくつもあります。
いずれも、「屋敷跡」としての性格を今に伝える貴重なモニュメントなんです。
晴明邸の周囲には、ほかにも安倍晴明の術や逸話が残る名所が点在しています。
屋敷そのものは消えてしまっても、まわりに残されたこれらの場所が、まるで「記憶の地図」のように晴明の存在を浮かび上がらせてくれます。
明治時代以前までは、実際に陰陽師の子孫たちがこのエリアに住み続けていたとも言われており、土地の記憶としての「晴明邸」は人々の心に深く根づいていました。
そして今では、神社や地名、伝承を通じて、安倍晴明の屋敷は単なる“建物跡”ではなく、神秘と信仰の聖地として再生されているんですね。
五行要約