
陰陽道(おんみょうどう)って、「日本の伝統的な呪術」って思われがちですが、その根っこはどこにあるの?って聞かれると、答えはちょっと複雑。たしかに今の形は日本独自なんだけど、そのもとは中国の哲学や占術にあるんです。
じゃあ、「中国のまんま」なの?っていうと、これまた違っていて…日本に入ってきてから、神道や仏教と融合したり、国家の制度に組み込まれたりして、まったく新しい形に育っていったんですね。
このページでは、そんな陰陽道の起源について、「どこから来て、どう変わっていったのか」をわかりやすくかみ砕いて解説します。
陰陽道の出発点は、中国の春秋戦国時代(紀元前770年〜221年頃)に形成された陰陽思想と五行説にあります。これは、
この2つが合体して、「自然も人も星の動きも、全部この法則で説明できる!」という大スケールな思想になっていきました。のちに『易経(えききょう)』や暦法、占星術にも取り入れられて、中国では道教や儒教の中でも重要な理論として使われるようになりました。
この中国の知恵が日本に入ってきたのは、5〜6世紀ごろ。直接というより、百済(くだら)や高句麗(こうくり)の僧侶や学者を通じて、仏教や暦法と一緒に伝えられました。
とくに飛鳥時代には、聖徳太子や渡来人の手で政治や暦の仕組みに組み込まれ、701年の大宝律令では、国家の公式占術機関として陰陽寮が設立されます。ここで初めて「陰陽師」という職業が登場し、官僚としての陰陽道が確立されるんです。
平安時代になると、陰陽道は中国の道教的な雰囲気から一歩離れて、神道や仏教と混ざり合いながら、独自の進化を遂げていきます。
このころには、呪術や宮廷儀式としての役割が強くなって、方位除けや厄払い、結界、式神の使役など、「日本らしい呪術文化」が形成されていくんですね。
特に有名なのが、安倍晴明をはじめとする安倍家・賀茂家といった世襲陰陽師の存在。こうした家系が陰陽道の秘儀を代々受け継ぎ、学問や実践の両面で大きな影響力を持っていきました。
おもしろいのは、中国には「陰陽道(おんみょうどう)」という名称や制度は存在しなかったってこと。たしかに道教では陰陽五行は重要だけど、それを職業として制度化したり、国家の儀式にまで使ったりするのは日本独特のスタイルなんです。
つまり、日本では「思想」から「職業(官職)」へ、さらには「宗教儀式」へと変化していったってわけ。これが陰陽道の日本化なんですね。
まとめると、陰陽道は中国思想の影響を色濃く受けた出発点を持ちつつ、日本の文化・宗教・政治制度の中で、まったく新しい形に育てられたハイブリッドな伝統と言えます。
「中国からの輸入品」ではなく、「輸入品をベースにした日本製アレンジ」といった方が近いかもしれませんね。
五行要約