
陰陽師(おんみょうじ)というと平安時代のイメージが強いですが、鎌倉時代にも彼らはしっかり活躍していたんです!
「武士の時代」に入っても、陰陽師は軍事・政治・宗教をまたいで重要な存在だったというのが、実はこの時代の大きな特徴なんですよ。
このページでは、そんな鎌倉時代における陰陽師の役割から、当時の社会や文化の輪郭を探っていきます。
平家から政権を奪い、幕府を開いた源頼朝。その彼も、実は陰陽師をかなり信頼していたって知ってましたか?
1180年、伊豆での挙兵時に出陣の吉日を陰陽師に占わせた記録があって、その後の天気が晴れたことを「祈祷のおかげ」と信じたとか。
頼朝だけじゃなく、幕府は陰陽師を“公式の祈祷師”として重用していて、安倍氏系の人物がその中心にいました。星の動きや天文現象を報告する天文博士として、彼らは政治の節目に関わっていたんです。
この時代、戦いが頻発するなかで陰陽師が果たした役割は、占い以上のもの。
出陣や合戦の時に吉凶を判断するだけじゃなく、軍事戦略のサポートを担う“軍師的存在”だったんですよ。
たとえば、金星と火星が異常接近する「太白の変」が起きた時、それをどう解釈するかが政権にとって重要でした。陰陽師はそういった天文異変を「戦の兆し」と読んで、実際の判断にまで影響を与えていたんです。
陰陽道といえば京都中心のイメージがありますが、鎌倉時代には関東にも陰陽師集団が形成されていました。
安倍・賀茂氏に加え、伴氏や惟宗氏といった別系統の陰陽師たちも、幕府に仕えていたんです。まさに“東の陰陽師時代”とも言える展開ですね。
彼らは京都と鎌倉をつなぐ文化・情報の橋渡し役でもあり、官僚と宗教者のハイブリッドとして活動していました。
鎌倉時代の記録として有名な『吾妻鏡』や『明月記』などにも、陰陽師の活躍がちゃんと残っています。
こんなふうに、ちゃんと現場で具体的に何をしていたかが記録として残っているのは、鎌倉時代ならではの魅力なんです。
よく「鎌倉時代=武士と実力の世界」ってイメージがありますが、実は呪術と軍事が共存していたんですよ。
陰陽師は科学者であり、宗教者であり、そして軍事顧問でもあった――そんな多面性を持つ専門職だったんです。
これは、戦の勝敗だけでなく、災害・疫病・政治変動などのすべてに“運命”が関係してると考えていた当時の文化風土を反映しているんですね。
五行要約