
土御門家といえば京都──そう思っている人が多いかもしれません。でも実は、福井県おおい町名田庄(なたしょう)も、土御門家にとってもうひとつの本拠地だったんです。
ここでは、平安末から現代にかけて土御門家が福井県に残した足跡をたどりながら、地域との関係をわかりやすくかみ砕いて解説します。
戦国時代の始まりとされる応仁の乱(※)で京の治安が崩れたとき、土御門家は京都を離れ、若狭の山間地・名田庄へと避難します。
この移住は一時的なものではなく、土御門有宣〜有脩の三代にわたり定着。ここで天文観測や祭祀、暦づくりを続け、名田庄はまさに陰陽道の実践拠点となったんです。
さらに、幕府から泰山府君祭料地として土地の支配権が認められ、政治的にも宗教的にも拠点化が進みました。
※応仁の乱(おうにんのらん)
1467年に始まった室町時代後期の内乱で、将軍継嗣問題や守護大名間の対立が原因。細川勝元と山名宗全が東西に分かれて争い、戦火は京都全体に広がった。11年に及ぶ戦乱で幕府権威は大きく低下し、「戦国時代」の幕開けとされる。
現在の名田庄・納田終(のたおい)集落には、土御門家三代の墓所が残っています。五輪塔の形式で並んだ墓は福井県指定史跡となっており、現地でも大切に保存されています。
さらに屋敷跡からは鳥居群や天壇跡が見つかっていて、これは単なる住居というより儀式・観測の都市空間だったことを物語っています。
名田庄の信仰的中心が天社宮(てんしゃぐう)です。ここは陰陽道における泰山府君大神を祀る日本で数少ない神社で、天社土御門神道本庁の拠点でもあります。
この神道体系は、土御門家の末裔である土御門範忠によって1954年に再興され、戦後も本格的な宗教法人として運営されています。
境内には四神鳥居や天壇があり、まさに陰陽道が今も息づく聖域なんです。
名田庄には、土御門家に関する暦・陰陽道の資料を一堂に集めた暦会館もあります。ここでは渾天儀や漏刻(ろうこく)※などの実物資料を間近で見ることができて、子どもから研究者まで人気のスポット。
体験展示やワークショップも充実していて、地域と観光・教育が連携する文化発信基地となっています。
※渾天儀(こんてんぎ)と漏刻(ろうこく)
古代中国で発達した天文・時間観測器。渾天儀は天球を再現し星の動きを観測する装置、漏刻は水の流れで時刻を測る時計。ともに正確な暦作成や儀礼の時間管理に使われ、陰陽道や国家祭祀にも深く関わった。
名田庄という地名は、もともと平安末期の荘園「名田庄」から来ていて、後白河法皇の領地にもなった由緒ある土地です。
そこに後からやってきた土御門家は、天文・神道・学問を軸に地域と融合し、「星の降る里」として現在も星まつりや祈祷祭が続いています。
つまり──福井・名田庄は、土御門家が天と人を結び続けた「第二の京」だったというわけです。
五行要約