
怨霊、それはこの世に思いを残し、なお現世をさまよう魂たち──。平安の都では、地震も疫病も、ひとえに怨霊の祟りと恐れられていました。
その災いを鎮めるために登場したのが、天文と呪術を司る陰陽師です。
今回は、祟りと鎮魂の最前線で陰陽師がどんな役割を果たしていたのかを追いながら、「怨霊を敵とするか、和解すべきか」という日本人の死生観の深みに触れていきます。
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怨霊(おんりょう)とは、無念の死を遂げた人の霊が、死後に恨みを残して災いをもたらす存在。特定の個人を呪うだけでなく、国家や社会全体を混乱させる力を持つと信じられていました。
有名どころでは、
こうした怨霊は、必ずしも悪ではなく、無念を晴らすことが目的。陰陽師たちは、その訴えに耳を傾け、調伏や和解を通して祟りを止めようとしたんです。
陰陽師が活躍する最大の舞台が御霊会(ごりょうえ)です。これは朝廷が行う集団的な怨霊鎮魂儀礼で、供物を捧げ、呪文や読経、舞楽で魂を慰める場でした。安倍晴明も数多く関与した記録が残されています。
さらに、魂そのものを呼び戻して安定させる招魂祭も重要でした。これは怨念が他者に取り憑くのを防ぐ儀式で、国家儀礼の一環として陰陽寮で執り行われました。
これらの儀式は、単なる霊的処置ではなく、国家の平安維持のための「政治的鎮魂」でもあったんですね。
「最近、疫病が流行っているのは怨霊のせいか?」そんなとき陰陽師は占術を用いて原因を探ります。暦や星回りから災厄の根源を割り出し、必要に応じて憑依媒介者(ヨリマシ)を通して怨霊の声を聞く。
そこから始まるのが調伏──つまり、
後者はとくに日本的で、「悪霊」としてではなく、悔しさを抱えた存在として扱う姿勢が見られます。
『源氏物語』や『平家物語』にも、この“対話による鎮魂”の場面が描かれていて、文学的にも深く浸透していました。
実際の調伏には、さまざまな術具や空間設計が使われました。
特に節分や大祓といった年中行事では、こうした技法が用いられ、目に見えない災厄の流入を防ぐ大事な儀式だったんです。
おもしろいのは、怨霊が最終的には神として祀られるという日本特有の変容です。たとえば、
これは、怨霊を倒すのではなく、神として受け入れ、その力を守護へ転じるという考え方。陰陽師は、この「転化儀礼」の実行者でもあったんですね。
能や狂言の舞台でも、「祟り霊が舞い、鎮まる」という様式が確立し、日本文化の一部として怨霊と鎮魂のテーマが語り継がれています。
怨霊は排除すべき“敵”ではなく、理解すべき“訴え手”だった──。陰陽師たちは、そんな日本的死生観の担い手として、過去の痛みと現在の安寧をつなぐ魂の通訳者でもあったのです。
五行要約
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