
陰陽道(おんみょうどう)が本格的に“文化の主役”になったのって、じつは平安時代なんです!
政治・宗教・文学・都市計画まで、あらゆるところに陰陽道の思想が染み込んでいて、いまに続く「日本らしい文化」の土台がこの時期にしっかりできあがったんですね。
このページではそんな平安時代における陰陽道の役割と、そこから見えてくる文化と価値観のかたちをわかりやすくかみ砕いて解説します!
まず大前提として、平安時代中期には陰陽寮が大内裏の中に置かれて、陰陽師・天文博士・暦博士が常駐してました。
彼らの仕事はこんな感じ:
つまり、「国家の安心安全を担う技術集団」だったんですね。制度のなかでバリバリ活躍していた、いわば“国のお抱え占術官”たちです。
平安陰陽道を語るうえで外せないのが安倍晴明!
彼は実在した陰陽師兼天文博士であり、陰陽寮の中心人物でもありました。
今でこそ「式神を使役する最強の呪術師!」…みたいに伝説化されてますが、実際は公的な技術官僚として地に足のついた仕事をしてたんですね。
平安中期の国風文化――雅で繊細なこの文化の土台にも、じつは陰陽道が深く関わっています。
こんなふうに、「自然と人との調和」「天と人との感応」っていう宇宙的秩序が、平安人の生活美学に息づいていたんですね。
宮廷だけじゃなく、民間にも広がっていったのが呪術・祈祷の力。
もちろん危険な儀式もあって、たとえば丑の刻参りなんかは陰陽道の呪詛文化の一例。そんなヤバめの使い方には罰則もあったんですが、同時にそれだけ社会に深く根づいていた証でもあります。
この時代には、「物語」の世界にも陰陽道が入り込んでいます。
『今昔物語』や『大鏡』などの古典文学には、陰陽師や妖怪、鬼退治の話がたくさん!
こうして神秘性・超自然・霊性を扱う思想として、陰陽道は人々の想像力を刺激しながら、日本独自のファンタジー文化のルーツをつくっていきました。
五行要約