
陰陽道(おんみょうどう)は、かつて国家制度に組み込まれるほどの力を持っていた学問・信仰体系。でも、今では「歴史上の存在」や「アニメの世界」って感じがしますよね。
じゃあ、いったいどうして陰陽道は廃れてしまったのか?誰かに潰された?忘れられた?それとも時代の流れ?
このページでは、陰陽道が衰退し、やがて禁止されていった経緯を、歴史の流れに沿ってわかりやすくかみ砕いて解説します。
陰陽道が最初にぐらつきはじめたのは、鎌倉〜戦国時代のころ。武士の時代になると、陰陽道が活躍していた宮廷や貴族文化そのものの影響力が落ちていきます。
それまでは天皇の即位や国家儀礼のたびに陰陽師が大活躍していたのに、武家政権にはそういった「宮中のしきたり」はあまり重要視されなかったんですね。
結果として、陰陽師の公式な地位や役割はしだいに縮小されていき、やがて祈祷師や占い師のような民間職へと姿を変えていきます。
江戸時代になると、幕府は偽の陰陽師や迷信の広がりを問題視するようになり、統制や取り締まりが進みます。
ただし陰陽道が完全に否定されたわけではなく、土御門家などは暦作成や天文観測など、実務的な役割を担い続けていました。将軍の即位や天変地異の際には、やはり陰陽師の知識が重宝されたんです。
つまり、この頃はまだ「迷信と実務のあいだ」でなんとかバランスを取っていた状態でした。
そして明治維新。ここで陰陽道にとって運命の分かれ道がやってきます。
明治新政府は「文明開化」をスローガンに、科学的・合理的な社会の構築を目指していました。そのなかで、呪術的で宗教的で「科学じゃない」陰陽道は、まっさきに排除の対象となったんです。
明治3年(1870年)には事実上の陰陽道禁止令「天社禁止令(てんしゃきんしれい)」が出され、陰陽寮も正式に廃止されます。
さらに明治5年(1872年)には、それまで陰陽師が担当していた太陰太陽暦が廃止され、西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)が導入されます。
そして、暦や天文の業務も海軍水路局や文部省天文台などに引き継がれていき、土御門家をはじめとする陰陽師たちは、完全に仕事を失うことになります。
最終的に、陰陽道は神仏分離や廃仏毀釈などの宗教整理のなかで、「科学的根拠のない迷信」として、国家から完全に排除されてしまいました。
でもね、暦の中に残る六曜や方位の吉凶、厄年の風習なんかに、実は陰陽道の名残がたっぷり残ってるんですよ。
五行要約