
平安時代を騒がせた乱の英雄・平将門と、同じ時代に名を馳せた安倍晴明。一見まったく接点がなさそうなふたりですが、実は一部地域や文献の中で「深いつながりがあったのでは?」と語られているんです。とくに「将門の子が晴明だった」という衝撃的な異説まで飛び出すほど、ふたりの関係には謎とロマンが詰まっています。
このページでは、「安倍晴明と平将門の関係」について、史実と伝承を行き来しながら、じっくり深掘りしてみましょう。
まず最初にご紹介するのは、「安倍晴明=平将門の息子」説。これは、将門の次男・将国が父の乱のあと身を隠し、「安倍晴明」として生き延びたという大胆な説なんです。
将国は関東・常陸国の信太の地に逃れたとされていて、これが晴明の出身地とされる筑西市猫島と一致する点が、この説の支えになっているんですね。
晴明の産湯をくんだとされる「晴明井戸」が、茨城県の猫島に残っています。将門の本拠地だった関東圏と近く、さらに「信太の森」といえば、晴明の母が狐の葛葉という伝承の舞台でもあります。
このあたりの地名や伝承が重なることで、「やっぱり晴明と将門、つながってたんじゃ?」と感じる人が出てくるのもわかる気がします。
東京都葛飾区の五方山熊野神社は、なんと境内の形が五角形。この「五角形」は陰陽五行説の象徴でもあり、晴明の五芒星との関係が想起されるんです。
さらに、将門が一時期「新皇(しんのう)」を名乗った思想と、この神社の象徴性がリンクし、陰陽道や晴明の伝承と結びつけられるようになったとされています。
中世以降に書かれた陰陽道の秘伝書『ホキ内伝』や、その注釈書『ホキ抄』には、「晴明は将門の子・将国だった」とする異説がしっかり記されています。
もちろんこれは正式な歴史書ではないのですが、民間伝承や陰陽道の教団内部で語られてきた“もうひとつの晴明像”として、とても興味深いんです。
とはいえ、冷静に考えると晴明の生年(921年)と将門の死(940年)を比べると、親子関係としてはちょっと無理があるかも…。
また、当時の一次資料──たとえば『日本紀略』や『本朝世紀』などにも両者の直接的関係は一切記録されていないんです。なので、現在の研究者たちは「面白い伝承だけど、史実とは言えないね」とする立場が主流です。
五行要約