
陰陽師(おんみょうじ)といえば、平安や戦国時代に活躍していたイメージが強いかもしれませんが、じつは明治時代こそがその“公的な終焉”の時代だったんです。
千年以上続いた陰陽師の歴史は、明治維新によって突然ストップすることになります。
このページでは、そんな激動の時代に陰陽師たちがどう変化し、何を失い、何を残していったのかに注目していきましょう。
明治維新※後、政府は「四民平等」「廃藩置県」など、旧体制の一掃を急ぎました。その流れで“陰陽道”も「迷信」と見なされて排除されることになります。
その象徴が、明治3年(1870年)に発せられた「天社禁止令」。この時点で、飛鳥時代から約1200年続いてきた中央官庁「陰陽寮」が正式に廃止されました。
さらに土御門晴雄の死を契機に、後継者への公的地位の承認も打ち切られ、陰陽師は制度上の存在として“消滅”してしまいます。
※明治維新(めいじいしん)
19世紀後半、日本が江戸幕府を終えて近代国家へと転換した一連の政治・社会改革(1868年頃〜)。中央集権化、廃藩置県、四民平等、徴兵制、西洋化政策などが実施され、天皇を中心とする新政府が誕生。日本の近代化と富国強兵の礎となった。
それまで陰陽師が独占していた暦作成や天文観測は、近代的な天文台・海軍水路局・文部省などに引き継がれていきます。
一時的に土御門晴栄が大学星学局の御用掛に任命されたものの、すぐに解任。土御門家と“近代科学の国家機関”とのつながりも断たれていきました。
暦の改正(旧暦→新暦)も一気に断行され、明治5年には太陽暦(グレゴリオ暦)が導入。それによって、全国で混乱が起き、旧暦復活を求める一揆まで発生しています。
制度としての「陰陽師」が消えてしまったことで、多くの陰陽師たちは仕事を失い、生活の糧を奪われてしまいました。
ただ、彼らの中には神職や民間祈祷師に転身した人もいて、おみくじ・方位祓い・家相見といった形で、陰陽道の技術や知識を庶民信仰の中に溶け込ませていったんです。
こうして、呪術的な側面は消えずに「風習」として細々と生き続けることになります。
明治期には、「陰陽道や易学を学問として保存しよう」という教育機関設立(易学講究所)の構想も浮上しました。
でも、実現には至らず、土御門家も科学的・教育的な価値から次第に切り離されていきます。
政府としては、「非科学的なものは排除」「西洋科学を優先」という方針だったので、陰陽道はその波に飲み込まれてしまったんですね。
こうして公的陰陽師は明治初期で完全に姿を消したわけですが、それで全てが終わったわけではありません。
晴明神社や地方の伝承、祭祀文化など、陰陽道的な思想や儀礼は今も息づいています。
現代にまで残る結界・厄除け・式神信仰などは、まさにその“残響”。公の制度としては終わっても、文化の根っこにはしっかり残ってるんですね。
五行要約