
暦と占い──それは単なる迷信なんかじゃなく、かつての日本人にとって時間と宇宙を読み解く最先端テクノロジーだったんです。太陽と月、星と季節、地の気と人の運命。すべてがつながった壮大な設計図が、「暦」や「占い」として形になっていたって、ちょっとワクワクしませんか?
この講座では、そんな陰陽道の“カレンダー観”と“占い観”を、道具・思想・歴史の3つの視点からじっくり解説します。
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陰陽道において、暦をつくる学問は「暦道」と呼ばれます。天体の動きを読み、地上の出来事とのリンクを探る、いわば「宇宙との会話術」なんです。
陰陽師の中でも、特に暦博士は重要な役職で、朝廷の命を受けて「暦」をつくってました。季節の移り変わり、天変地異、豊作の予測までぜんぶ暦に組み込まれてたんですよ。
平安時代には陰陽寮という国家機関が暦の中心で、後には賀茂氏や安倍氏といった家系が世襲で暦を管理。江戸時代には渾天儀や西洋の天文学まで導入され、全国へ暦が配布されました。
占いといっても、当時の陰陽師の占術はかなりシステマチック。天体観測や干支、方位までフル活用して、「いつ、どこで、なにをするか」を決めてたんです。
たとえばこんなシステムがありました:
さらには、午前中は凶、午後は吉なんて細かい時間指定まで暦に書かれていて、引っ越し・旅行・結婚式などの予定に使われていました。
占いの骨格をなしていたのが、十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅…)を掛け合わせた六十干支のサイクル。60年ごとに一巡するこの組み合わせが、日・時刻・年・月などあらゆる時間に当てはめられていました。
たとえば「丙午(ひのえうま)」という年や日には火の気が強く、事故が起こりやすいから避けよう…なんて話も、この六十干支による判断です。
そして方位にも干支が割り当てられていたので、吉方位・凶方位を決めるときにもこの干支の知識が使われました。
陰陽師の仕事は、ただ空を見上げて判断するだけじゃありません。いろんな“道具”を使って、目に見えない流れを可視化してたんです。
たとえば…
これらを駆使して、国家レベルの災害予測から、個人レベルの引っ越し吉日まで、ありとあらゆることにアドバイスしてたんですね。
飛鳥時代に陰陽寮が設置されてから、平安・鎌倉・江戸と時代を通じて暦と占いは生活のど真ん中にありました。
江戸時代になると、庶民にも「お伊勢参り」や「引っ越し吉日」を気にする文化が広まり、暦はカレンダーというより「生活マニュアル」に。書店では暦注入りの「こよみ本」が大人気だったんです。
でも明治になると西洋式のグレゴリオ暦が採用されて、陰陽寮も廃止。伝統的な暦の技術は、学問や趣味、民間信仰の世界へと姿を変えていきました。
第三回入門講座「暦と占いのしくみ〜吉凶を測る古代の知恵と科学を学ぶ〜」でした!
いかがでしたでしょうか?
「カレンダーってただの数字の羅列でしょ?」って思ってた人も、きっと見方が変わったんじゃないでしょうか。陰陽道における暦は、宇宙・自然・人の営みをつなぐ巨大なネットワーク。そのなかで陰陽師たちは、“天と地の通訳者”として生きていたんです。
五行要約
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