
陰陽師(おんみょうじ)って日本のものって思いがちだけど、実はそのルーツ、ずーっと中国にさかのぼるんです!
陰陽師の原点は、中国で生まれた「陰陽五行思想」――つまり、自然のリズムや宇宙の原理を読み解く壮大な理論体系にあった!
このページでは、その発祥の地とされる古代中国の哲学や思想の流れを見ていきながら、どのようにして「陰陽師」へとつながったのか、しっかり紐解いていきますよ。
まず陰陽思想は、中国で超古くからあった自然観に基づく考え方です。
たとえば、「晴れの日と曇りの日」「昼と夜」「温かさと冷たさ」みたいに、二つの対になるものを観察して、「この世のすべてはこの陰と陽のバランスで成り立っている」って考えたんですね。
やがて、この思想は「太極(たいきょく)」という宇宙原理と結びついて、季節の変化や天体の運行まで説明できる、かなり本格的な理論へと進化していきました。
一方で、もう一つの柱が五行思想。これは、木・火・土・金・水の5つの要素がこの世を循環してるっていう考え方。
春は木、夏は火、秋は金、冬は水、そしてそのつなぎが土……みたいに、季節や方角、臓器、色、感情まで全部を分類して説明する万能理論です。
特に戦国時代の思想家・鄒衍(すうえん)は、「王朝の変遷も五行の流れによる」って説を唱えて、五行思想に政治的な意味を持たせたんですよ!
この陰陽思想と五行思想が合体したのが、のちに陰陽五行説と呼ばれるもの。
この統合が起きたのは、だいたい戦国末期〜漢代初期にかけて。漢の学者董仲舒(とうちゅうじょ)はこれを儒教思想と結びつけ、「天人感応」――つまり「天の気配を政治に反映させよ」って理屈を作り出しました。
ここから、皇帝が空を読み、社会を整えるという占星政治の基礎が出来上がったんです。
古代中国には「陰陽家」と呼ばれる専門職の人たちがいて、暦作り・天文観測・風水・占術などの分野を体系立てていきました。
この人たちが、まさに陰陽師のご先祖さまみたいな存在!
『易経』や『荀子』『周易』といった儒教・道教系の古典にも、そうした知識ががっつり詰まっていて、後の陰陽師たちの教科書になっていったんです。
この思想が日本にやってくるのは、5〜6世紀のこと。百済や高句麗の学者たちが、暦・天文・風水の知識を伝え、飛鳥時代に聖徳太子が政治制度に活用し始めます。
そして律令制が整った8世紀には、陰陽寮が誕生!国家機関として正式に陰陽師が置かれるようになり、ここでようやく日本版の陰陽道が形になっていったわけです。
中国の「陰陽家」の知識と技術が、日本で「陰陽師」として花開いた――まさに輸入+進化の賜物なんですね。
五行要約