
陰陽師(おんみょうじ)と聞くと平安時代を思い浮かべがちですが、実はその後の室町時代にも、彼らは静かに、でも着実に日本の歴史のうねりとともに活動を続けていたんです。
この時代、陰陽師は「儀礼の演出家」「軍のブレーン」「地域の守護者」としてマルチに活躍していたんですよ!
このページでは、そんな室町時代の陰陽師の動向を通して、政治・軍事・文化の姿をのぞいてみましょう。
室町時代になっても、陰陽寮という制度自体はしっかり残ってました。たとえ形式的だったとしても、国家儀礼には「陰陽師がいないと始まらない」って空気があったんです。
中でも活躍していたのが、あの安倍晴明の子孫である土御門家(つちみかどけ)。
足利義満のもとで特に重用されていて、政治の行事・祭儀で「日取り」「方角」「式次第」を決める超重要ポジションにいたんですよ。
平安時代以来の最盛期と言われるのが、足利義満が幕府を率いていた室町中期。
彼の作った北山文化は、美と権威を融合させた雅なスタイルで、陰陽道の儀礼もそこにぴったりハマったんですね。
特に北山離宮(鹿苑寺=金閣寺)での大規模な式典には、陰陽師が参加して、天文・方位・祝詞を決定。儀式の成功や将軍の威厳を支える“裏方の王者”だったわけです。
南北朝の争いや戦国時代に突入すると、陰陽師の役割にも変化が。
この時期、彼らは戦の前に出陣吉日を占い、戦勝祈願をしたり、士気を上げる呪術儀礼を行ったりと、まさに軍師的存在として戦場にも関わっていたんです。
たとえば細川頼之は、「戦の日取りは陰陽師に占わせよ」と記録に残しているほど。戦乱の世でも、「天の動き」が大事にされていたってことなんですね。
しかし……応仁の乱(1467年)による全国的な混乱は、陰陽師にも大きな影響を与えます。
中央の幕府の力が弱まり、それとともに土御門家の陰陽師たちも領地を離れざるを得なくなるなど、徐々に公的な影響力を失っていくんです。
それでも完全に消えたわけではなく、武家や寺社、地方豪族のもとで、個別の祈祷師・暦師として活動を続ける形に移っていきます。
室町時代って、実は能・水墨画・連歌など、精神文化が大きく花開いた時代でもあります。
そんな中、陰陽師は「占い師」だけでなく、儀式や時間・方角の専門家として、文化の舞台裏を支えていたんですね。
将軍や大名の結婚・葬儀・寺社建立といった大事な場面で、“その日その時”の正しさを決めるのが彼らの仕事。まさに、見えないところで平和と秩序を守る存在でした。
五行要約