E陰陽師たちの系譜〜安倍晴明から賀茂氏まで、歴史に名を残す陰陽師たち〜

入門講座 第6回:陰陽師たちの系譜

陰陽師たちの系譜〜安倍晴明から賀茂氏まで、歴史に名を残す陰陽師たち〜

天文と暦を読み、祟りと災いを祓い、人知を超えた力に挑んだ者たちがいました。


彼らの名は陰陽師


──そしてその系譜の頂点に立つのが、あの安倍晴明賀茂忠行たちです。日本の政治と宗教が深く交差する時代、彼らは単なる占い師ではなく、国家の命運を担う存在でもありました。


今回の講座では、平安時代から江戸・明治へと続いた陰陽道の二大宗家、賀茂氏と安倍(土御門)氏の系譜、そしてその周辺にいた個性豊かな陰陽師たちの活躍を、史実と伝承の両面からわかりやすくかみ砕いて解説します。



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始祖・賀茂忠行が築いた陰陽師の道

賀茂忠行は、9世紀の平安中期に登場した陰陽道の開祖的存在です。天文や暦だけでなく、当時の超常技術「射覆(せきふ)」──つまり物の中身を透視する術でも評判を呼び、朝廷の信頼を一身に集めていました。


彼の真の功績は、陰陽寮での賀茂氏の地位を世襲化させた点にあります。当時は知識人・技術者の役職が流動的だったのに対し、忠行はその実力と名声で、賀茂家を国家公認の陰陽道宗家として定着させたんですね。


この忠行の息子が、のちに名高い人物の師匠となる賀茂保憲です。


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保憲と晴明、師弟から二大宗家へ

賀茂保憲は父の後を継ぎ、陰陽道の技法をさらに体系化。とくに天文・占星に長け、平安貴族たちの相談役としても名を馳せました。彼の元で学んだのが、のちに伝説となる安倍晴明です。


保憲は、自らの子賀茂光栄には暦道を、晴明には天文と占術を託すという、いわば「流派の分岐」を行いました。これにより、賀茂氏=暦道の宗家、安倍氏=天文道・陰陽道の宗家という二大宗家体制が誕生したわけです。


ちなみに晴明は、藤原道長など当代の権力者に取り入って強大な影響力を持ち、「呪術で政を支える」というスタイルを確立しました。


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土御門家としての発展と全国支配

晴明の子孫はやがて土御門姓を名乗るようになります。彼らは鎌倉・室町を経て江戸時代に至るまで、陰陽寮の職掌を独占する存在に。とくに江戸初期には幕府から「全国の陰陽師に免状を発行する権利」を与えられ、事実上の国家公認占術団体として機能していました。


この頃になると、朝廷では形式的な存在になっていた陰陽師が、民間ではむしろ大活躍。日常の吉凶判断や厄除けなど、生活密着型の陰陽道が広がっていきます。


でも注意したいのは、すべてがエリート陰陽師というわけじゃないんです。土御門家の流れをくむ者の中には、地方に散って「鎌倉陰陽師」などの名で活動するグループも登場します。


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蘆屋道満とその周辺の異能たち

系譜からは外れるけれど、忘れちゃいけないのが蘆屋道満(あしやどうまん)。彼は晴明と同時代に活躍した異端の陰陽師で、「ライバル」として数々の伝説が残されています。


道満は、民間から出た“ヤミ陰陽師”とも言える存在で、正式な官人ではありませんでしたが、実力は折り紙つき。晴明との呪術合戦を描いた説話では、式神の使役合戦、星の動きを読む天文勝負など、まさに“霊術の頂上決戦”が描かれます。


こうした伝承は、のちの創作にも大きな影響を与え、「陰陽師=バトルする異能者」みたいなイメージの原点にもなっています。


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終焉と再解釈、現代に伝わる系譜

明治に入ると、政府は陰陽道を「迷信」として禁止土御門家も陰陽頭の地位を失い、実質的に陰陽師の制度はここで終了します。


でも不思議なことに、廃止されたはずの陰陽道は、形を変えて生き延びるんです。


たとえば、


  • 暦注(六曜・十二直など)としてカレンダーに名残が残る
  • 神道や民間信仰に溶け込んだ形式で儀礼が続く
  • 創作作品で“陰陽師キャラ”が人気になる


といった具合に「文化」として、陰陽道は日本の日常に溶け込んでいますよね。


安倍晴明を祖とする土御門神道や、高知のいざなぎ流など、現代にまでかすかに続く流れもあり、「陰陽師の系譜」は一度も完全に絶えたことがないとも言えるんですね。


 


陰陽師たちは、単なる占い師ではなく政治・科学・信仰をつなぐキーパーソン。その系譜を知ることで、陰陽道がただのオカルトではなく、時代を支えたテクノロジーだったことが見えてきます。


五行要約

 
  1. 賀茂忠行が陰陽寮の世襲体制を築き、系譜の原点を作った!
  2. 賀茂保憲安倍晴明が師弟関係から二大宗家を形成!
  3. 土御門家は全国の陰陽師を支配する体制を江戸時代に確立!
  4. 蘆屋道満ら異能の陰陽師たちが伝承と創作文化を彩った!
  5. 明治以降も陰陽師の系譜は姿を変えて現代文化や信仰に継承されている!