
天文と暦を読み、祟りと災いを祓い、人知を超えた力に挑んだ者たちがいました。
彼らの名は陰陽師
──そしてその系譜の頂点に立つのが、あの安倍晴明や賀茂忠行たちです。日本の政治と宗教が深く交差する時代、彼らは単なる占い師ではなく、国家の命運を担う存在でもありました。
今回の講座では、平安時代から江戸・明治へと続いた陰陽道の二大宗家、賀茂氏と安倍(土御門)氏の系譜、そしてその周辺にいた個性豊かな陰陽師たちの活躍を、史実と伝承の両面からわかりやすくかみ砕いて解説します。
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賀茂忠行は、9世紀の平安中期に登場した陰陽道の開祖的存在です。天文や暦だけでなく、当時の超常技術「射覆(せきふ)」──つまり物の中身を透視する術でも評判を呼び、朝廷の信頼を一身に集めていました。
彼の真の功績は、陰陽寮での賀茂氏の地位を世襲化させた点にあります。当時は知識人・技術者の役職が流動的だったのに対し、忠行はその実力と名声で、賀茂家を国家公認の陰陽道宗家として定着させたんですね。
この忠行の息子が、のちに名高い人物の師匠となる賀茂保憲です。
賀茂保憲は父の後を継ぎ、陰陽道の技法をさらに体系化。とくに天文・占星に長け、平安貴族たちの相談役としても名を馳せました。彼の元で学んだのが、のちに伝説となる安倍晴明です。
保憲は、自らの子賀茂光栄には暦道を、晴明には天文と占術を託すという、いわば「流派の分岐」を行いました。これにより、賀茂氏=暦道の宗家、安倍氏=天文道・陰陽道の宗家という二大宗家体制が誕生したわけです。
ちなみに晴明は、藤原道長など当代の権力者に取り入って強大な影響力を持ち、「呪術で政を支える」というスタイルを確立しました。
晴明の子孫はやがて土御門姓を名乗るようになります。彼らは鎌倉・室町を経て江戸時代に至るまで、陰陽寮の職掌を独占する存在に。とくに江戸初期には幕府から「全国の陰陽師に免状を発行する権利」を与えられ、事実上の国家公認占術団体として機能していました。
この頃になると、朝廷では形式的な存在になっていた陰陽師が、民間ではむしろ大活躍。日常の吉凶判断や厄除けなど、生活密着型の陰陽道が広がっていきます。
でも注意したいのは、すべてがエリート陰陽師というわけじゃないんです。土御門家の流れをくむ者の中には、地方に散って「鎌倉陰陽師」などの名で活動するグループも登場します。
系譜からは外れるけれど、忘れちゃいけないのが蘆屋道満(あしやどうまん)。彼は晴明と同時代に活躍した異端の陰陽師で、「ライバル」として数々の伝説が残されています。
道満は、民間から出た“ヤミ陰陽師”とも言える存在で、正式な官人ではありませんでしたが、実力は折り紙つき。晴明との呪術合戦を描いた説話では、式神の使役合戦、星の動きを読む天文勝負など、まさに“霊術の頂上決戦”が描かれます。
こうした伝承は、のちの創作にも大きな影響を与え、「陰陽師=バトルする異能者」みたいなイメージの原点にもなっています。
明治に入ると、政府は陰陽道を「迷信」として禁止。土御門家も陰陽頭の地位を失い、実質的に陰陽師の制度はここで終了します。
でも不思議なことに、廃止されたはずの陰陽道は、形を変えて生き延びるんです。
たとえば、
といった具合に「文化」として、陰陽道は日本の日常に溶け込んでいますよね。
安倍晴明を祖とする土御門神道や、高知のいざなぎ流など、現代にまでかすかに続く流れもあり、「陰陽師の系譜」は一度も完全に絶えたことがないとも言えるんですね。
陰陽師たちは、単なる占い師ではなく政治・科学・信仰をつなぐキーパーソン。その系譜を知ることで、陰陽道がただのオカルトではなく、時代を支えたテクノロジーだったことが見えてきます。
五行要約
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