
「陰陽道といえば?」と聞かれたら、きっと安倍晴明の名前が真っ先に浮かぶ人が多いと思います。でもその晴明が陰陽師として大成できたのは、賀茂氏との出会いがあったからなんです。
このページでは、賀茂氏と土御門家(安倍氏)の関係性にスポットを当てながら、両者がいかにして陰陽道を築き、受け継ぎ、そして覇権を巡って揺れ動いたのかを、わかりやすくご紹介します!
平安時代初期、陰陽道の官庁である陰陽寮をリードしていたのは賀茂忠行。天文・暦・呪術を体系化し、陰陽寮における暦道の宗家として一族の名を確立しました。
しかし、その後登場した安倍晴明が天文道の宗家として台頭し、陰陽寮の実権を二分する構図に。こうして賀茂氏=暦道、安倍氏=天文道という二大宗家体制が始まるんです。
驚くべきことに、あの安倍晴明は賀茂保憲──つまり賀茂忠行の息子──に陰陽道を学んだ弟子なんです。
当時、天文や占星の知識は賀茂家の独壇場で、晴明はその英知を直接受け継ぎました。そして後に独自の流派を立て、安倍家→土御門家へと発展させていくことに。
いわば賀茂氏は「陰陽道を教えた親」であり、安倍氏は「それを外に広めた子」のような関係なんですね。
晴明の子孫は、土御門家として陰陽寮の陰陽頭を代々世襲するようになります。一方、賀茂氏嫡流の勘解由小路家は一時断絶し、主導権を完全に土御門家に奪われる形となりました。
江戸時代には、幸徳井家(賀茂氏の庶流)が巻き返しを試みましたが、最終的には全国の陰陽師を支配する免許制度が土御門家に集約されることに。
ここに至って、陰陽道の「宗家」は完全に土御門家へと移行しました。
1683年、霊元天皇と徳川綱吉の勅許によって、土御門家は陰陽師の免許を全国に発行する権利を獲得。これで形式上も実質上も、「陰陽師は土御門家の許可なしには名乗れない」時代が到来したんです。
以後、陰陽道は政治的にも制度化・中央集権化されていき、土御門家は江戸幕府の宗教行政にすら関与していきます。
明治時代に入って陰陽道は廃止されますが、土御門家は1946年に天社土御門神道として復興。
一方で賀茂氏は、宗家としての実務的地位は失いましたが、陰陽道の理論・祭祀・信仰の土台を築いた知の源流として、今も陰陽道文化に名を残しています。
たとえば、上賀茂・下鴨神社で行われる立砂・方位儀礼などには、賀茂流の陰陽道的思考がしっかり残っているんですよ。
五行要約