賀茂氏と藤原氏の関係

平安貴族と聞いてまず思い浮かぶのが藤原氏。一方で、古代の祭祀と陰陽道の中核を担ったのが賀茂氏。この二つの超名門氏族、じつは表立って争ったわけではないものの、しっかりと政略・機能分担・宗教的立場で交差していたんです。このページでは、そんな賀茂氏と藤原氏のちょっと不思議な関係を、陰陽道とのつながりを軸にひもといていきます。

 

 

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藤原不比等と賀茂姫の婚姻関係

まず最初のポイントは姻戚関係。藤原氏の礎を築いた藤原不比等※は、なんと賀茂氏出身の女性(賀茂姫)と結婚していたんです。この二人の間に生まれた娘が、のちに聖武天皇の母となり、天皇家との血縁をつなぐという大出世を果たしました。

 

これって実は、賀茂氏が「呪術の家系」としてだけじゃなく、国家政権の中枢にも食い込んでたことを示す、かなり大きな出来事なんですよ。

 

※藤原不比等(ふじわらのふひと)
飛鳥時代末〜奈良時代初期(659〜720年)の政治家で、藤原鎌足の子。大宝律令の編纂に尽力し、律令国家の基礎を築いた。娘を文武天皇や聖武天皇に嫁がせ、藤原氏の勢力拡大の礎を築いた中心人物。

 

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葛藤という言葉の由来になった説も?

なんと日本語の「葛藤(かっとう)」という言葉、語源の一説として「賀茂(葛城系)氏と藤原氏の対立」から来てるという話もあるんです。

 

これは、古代ヤマト政権内部で、葛城地方出身の賀茂氏が祭祀・呪術系として勢力を持つ中、藤原氏(もとは中臣氏)が政治的権力を握ることで、政教のバランスが揺れ動いた…そんな背景があったのかもしれませんね。

 

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賀茂=祭祀/藤原=政治という機能分担

役割で見ると、この二つの氏族はすみ分けて共存していたともいえます。

 

  • 賀茂氏賀茂別雷神社などの祭祀を通じて、天文や陰陽・暦といった神秘領域に精通
  • 藤原氏は、大宝律令の制定や摂関政治といった制度化・権力操作のプロ

 

つまり、国家の「魂」と「体」をそれぞれ担当していたとも言える関係なんです。

 

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平安京における共同構造の存在

平安京の建設にも、この両者は重要な形で関与しています。よく「平安京は藤原氏と秦氏が造った」と言われますが、その中で賀茂氏は土地の霊的な鎮め役として機能していたと考えられています。

 

この三者(藤原=政治、秦=技術、賀茂=祭祀)が協力することで、都市としての平安京の“霊的安定”が整えられたんですね。

 

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陰陽道の文脈で見る賀茂と藤原

陰陽道の観点から見ると、藤原氏は制度と政権を動かす側であり、賀茂氏は陰陽寮の設立や呪術・天文分野で現場を支える存在でした。

 

実際、賀茂忠行・賀茂保憲は安倍晴明の師匠であり、陰陽道の根幹をつくった重要人物。

 

こうして見てみると、藤原氏が「陰陽道を政治に活かすための枠組み」を作り、賀茂氏が「その中で実際に術を行使する存在」として機能していたわけです。

 

五行要約

 
  1. 藤原不比等は賀茂氏出身の女性と結婚し、天皇家との血縁を築いた!
  2. 「葛藤」という言葉は賀茂氏と藤原氏の対立が語源かも?
  3. 賀茂氏=祭祀・陰陽藤原氏=政治・儀式で機能分担していた!
  4. 平安京では、祭祀・政治・技術の三者が協力して都市を整備した!
  5. 陰陽道では藤原氏が制度、賀茂氏が現場という関係だった!