
星の動きで未来がわかる。そんなロマンあふれる知恵が、実は日本の制度のど真ん中にあったって、ご存じでしたか?
それがまさに陰陽道における占星術(せんせいじゅつ)。ただの星占いとはちょっと違って、政治や建築、戦争の日取りまで左右するくらい、昔の人にとっては超重要な国家スキルだったんです。
このページでは陰陽道における占星術の起源と発展について、古代から現代までの流れをわかりやすくかみ砕いてご紹介します。
もともと占星術は、中国の陰陽五行思想と道教の天文技術から発展したもの。星の動きを読むことで、天災・疫病・戦乱などの前兆を察知する技術とされていました。
5〜6世紀になると、朝鮮半島の百済や高句麗を通じて、こうした天文・暦法・占星の知識が日本に伝わります。
中でも有名なのが602年に来日した百済僧・観勒(かんろく)。彼が持ち込んだ『暦本』『天文書』『遁甲書』が、日本の占星術のはじまりとなりました。
676年、天武天皇が国家儀礼に天文占星具を導入したことがきっかけで、占星術は国家の仕事として整備されていきます。
701年の大宝律令では、陰陽寮という官庁が設置され、そこに天文博士や陰陽師が任命されました。彼らの主な任務はというと…
つまり占星術は、「空を見ること=政治の判断材料」だったんですね。
平安時代になると、占星術は宮廷文化と結びついていきます。安倍晴明などの陰陽師は、個人の運勢や相性を星の配置から占ったり、天変地異の前兆を読み取ったりすることで貴族の信頼を集めました。
この時期には、
といった複雑で壮大な星の魔術体系が生まれていきました。
時代が進むと、占星術は庶民にも浸透していきます。たとえば「擇日学(たくじつがく)」と呼ばれる、結婚・引越し・開業などの吉日選びが大人気に。
このころ広まったのが、「通勝(つうしょう)」と呼ばれる暦注書です。そこには、
といった陰陽道に由来する知識がギュッと詰め込まれていて、まさに「一家に一冊の占星ガイド」みたいな存在でした。
明治維新で陰陽道が制度から外されたあとも、占星術の文化は消えませんでした。いまでも、
こういった習慣や文化の中に、実は陰陽道の占星術のエッセンスがしっかり残っているんですね。
五行要約