安倍晴明と賀茂保憲の関係

安倍晴明賀茂保憲──平安中期の陰陽道界を支えた、まさに「名門×異才」の名コンビです。ふたりは同じ賀茂忠行を師に持ち、兄弟弟子という立場で学びながら、それぞれ異なる分野を担うことで陰陽寮の実務を分担・発展させました。

 

でも、ただの仲良しでは終わらないのがこのふたり。後には継承と権威をめぐる“静かな火花”もあったんです。

 

このページでは、「安倍晴明と賀茂保憲の関係」について、師弟・学術・競争といった多面的な側面からご紹介していきます。

 

 

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同じ師を持つ兄弟弟子

賀茂保憲は、陰陽師・賀茂忠行※の長男で、官職でも高位に就いた正統派エリート。彼は天文・暦法・儀礼すべてに通じていて、陰陽寮の中心人物として活躍していました。

 

安倍晴明は、忠行の“後進”として保憲に学び、「天文道」の奥義を受け継いだとされています。ふたりはまさに「兄貴と弟分」みたいな関係で、仲間でありライバルでもあったわけですね。

 

※賀茂忠行(かものただゆき)
平安時代の陰陽師で、賀茂氏の一族。陰陽道の権威として朝廷に仕え、天文や暦術の大家。安倍晴明の師としても知られ、息子の賀茂保憲とともに陰陽道の体系化に貢献。晴明の才能を早くから見抜いた逸話が残る人物。

 

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分担体制で陰陽道を支えた

興味深いのが、陰陽寮の中での役割分担。保憲は暦博士として「暦道」を賀茂家に残し、晴明は天文博士として「天文道」を安倍家に伝えました。

 

これにより、陰陽寮は「安倍家=天文」「賀茂家=暦」という棲み分け体制ができたんです。この体制は後に安賀両家体制として長く続くことになります。

 

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競争と継承の静かなバトル

保憲が977年に亡くなったあと、陰陽寮の実権は晴明にシフトしていきました。この時期、保憲の子・賀茂光栄との間で地位や継承をめぐる摩擦が起きたとも伝えられています。

 

この背景には、保守的な賀茂家と、個人の能力で台頭した安倍家のスタイルの違いもあったのかもしれません。晴明は官僚の枠を超えて民間でも活躍するカリスマ的存在だったので、賀茂家にとってはちょっと脅威でもあったんでしょうね。

 

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学術と実務の“両輪”

賀茂保憲は学者タイプで、暦法の名著『暦林』『保憲抄』などを残し、理論と制度を整える役割を果たしました。一方の晴明は、実務派として呪詛返しや星読み、儀式の執行などで現場をリード。

 

ふたりの役割があってこそ、当時の陰陽道が学問と実務の両輪として機能していたんですね。

 

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伝説にも残る“術比べ”

説話集『今昔物語集』には、保憲と晴明が占術比べをした話が残っています。たとえば、「どちらが箱の中身を当てるか」という勝負で、晴明が見事的中──という逸話が語られています。

 

もちろん後世の脚色もあるでしょうが、このふたりが拮抗する存在として意識されていたことが伝わってきます。

 

五行要約

 
  1. 賀茂保憲は晴明の兄弟弟子で、正式に天文道の師とされた人物!
  2. 賀茂家は暦道安倍家は天文という形で陰陽寮の役割を分担した!
  3. 保憲の死後、晴明が陰陽道の第一人者として台頭した!
  4. 保憲の子・賀茂光栄との間に後継争いが起きたとされる!
  5. 説話ではふたりの術比べエピソードが残されており、ライバル関係も強調されている!