
平安の星が、時代とともに地を這い、また空へと昇った──それが土御門家の歴史です。陰陽師の代名詞とも言える安倍晴明の血を継ぐ一族が、どのように時代を超えて存在感を示し続けたのか。政治・学問・神道と、役割を変えながらも脈々と続いたその軌跡を、このページではわかりやすくかみ砕いて解説します。
まず押さえておきたいのが、土御門家には二系統あるということ。ひとつは、平安末期に村上源氏久我流から分かれた公家の土御門家。こちらは政治・文官系です。
そしてもう一つが、あの安倍晴明の子孫が代々継いだ、いわば「本家」的存在の陰陽道の土御門家。こちらは国家の占いや天文観測、暦づくりなどを専門にしてきた家系なんです。
この二つの家は一時期並立し、前者はやがて断絶、後者が長く続くことになります。
応仁の乱※で京都が荒廃したころ、陰陽道の土御門家は京を離れ、若狭国(いまの福井県)名田庄へ避難します。ここで土御門家は「避難しただけ」じゃなく、しっかりと天文・暦道の学問道場を開設してるんです。
天文と占星の知を、田舎にまで根づかせたその姿勢はまさに学者魂。この時代に信仰的な意味でも地域に根を張り、後の江戸期の活動の土台になっていきます。
※応仁の乱(おうにんのらん)
1467年から11年にわたり続いた内乱で、室町幕府の後継争いや守護大名同士の対立が原因。東軍(足利義政の弟・義視派)と西軍(義政の子・義尚派)に分かれて全国を巻き込み、京都は荒廃。戦国時代への幕開けとされ、日本の中世社会を大きく変えた。
江戸時代に入ると、土御門家の専門職としての地位は確固たるものになります。暦づくりの権限、占いの権威、そして地方の陰陽師を統括する免許制度まで掌握。
幕府と朝廷の両方から信頼を受けていたのもポイントです。屋敷は京都・梅小路村に置かれ、陰陽道の一大中枢として機能しました。
また、江戸後期の土御門泰福は垂加神道※を取り入れ、神道家としても勢力を拡大。「土御門神道」という独自の信仰体系を打ち立てました。
※垂加神道(すいかしんとう)
江戸時代前期の儒学者・山崎闇斎が唱えた神道理論で、儒教(特に朱子学)と神道を融合。天皇中心の尊王思想と道徳重視を特徴とし、のちの水戸学や尊王攘夷思想に影響を与えた。「神儒一致」を掲げ、日本固有の信仰と儒理を統合しようとした体系的神道。
意外と知られてないですが、幕末には土御門藤子という女性が登場します。彼女は和宮の乳母として江戸城に入り、なんと江戸無血開城にも関与したんです。
藤子は直書(直接書かれた願い文)や嘆願書を持参し、和平を後押ししたとされていて、土御門家が外交的な役割まで担ったことがわかります。
明治維新で陰陽寮や家職制度が廃止されても、土御門家は子爵として華族に列し、文化人としての立場を維持します。
土御門熈光は戦前期に日本陰陽会の副総裁にもなりましたが早世。それでも家名は養子や女系継承で存続し、いまなお神道・陰陽道に関わる人物がいるそうです。
つまり──
土御門家は、千年以上にわたり「暦と星と呪」の専門家として生き抜いた名門ということ!
五行要約