
平安時代――天皇と貴族が中心の雅な世界において、ただの“占い師”とは違う、国家的スケールで動いた男がいます。それが安倍晴明。彼は天文を読み、災厄を祓い、呪術を操りながら、学問と信仰と政治の橋渡しをしていたんです。
このページでは、そんな晴明の「功績」にスポットを当てて、陰陽師としての仕事っぷり、天文博士としての活躍ぶりを時代の中でたどっていきます。
安倍晴明が歴史に初登場するのは960年ごろ。「天文得業生」という肩書きで宮廷に登用されたところから、彼のキャリアは始まりました。ここで彼が担当したのは天文観測・日食予測・異常天象の記録といった、現代でいう気象庁+天文学者みたいなポジション。
その後天文博士に昇進。これは天文・暦学における最高職で、国の暦を組む技術者のトップみたいなものです。
さらに干ばつのときには祈雨も担当し、見事に雨を降らせて朝廷の信頼をガッチリつかみました。
晴明は天文学だけでなく、国家レベルの災厄や祟りにも対応する陰陽道の呪術官でした。
1000年、後一条天皇が新しい内裏へ引っ越すとき、晴明は反閇(はんべい)という呪術的ステップを使って地の凶相を鎮めたといいます。
また、毎年行われる追儺(ついな)の儀式でも、鬼や疫病を祓う中心人物として働いていました。これ、疫病対策としての祈祷の一環で、当時の人々にとっては命を守る一大イベントだったんです。
もうひとつの晴明の功績は、霊的な存在への対応。たとえば那智山で天狗を封印した話や、丑の刻参りで怨霊となった橋姫の呪詛を鎮めた話などがあります。
なかでも有名なのが式神を用いた鬼封じや呪詛返し。ライバルの蘆屋道満による呪術攻撃を見破り、逆に撃退したという逸話は伝説として定着しました。
こうした話は、単なる“怖い話”ではなく、晴明が「人々の不安」や「目に見えない災い」と向き合ってきた証なんです。
陰陽師っていうと裏方のイメージかもしれませんが、晴明は例外。なんと最終的に従四位下という高位官僚まで出世しました。
これは当時の陰陽師としては異例の昇進で、それだけ彼が天皇や貴族たちに信頼されていた証拠。
さらにその後、晴明の子孫たちは土御門家として陰陽師の家系を築き、明治時代までその伝統を守り抜きます。
晴明の生涯はただの歴史にとどまらず、彼の功績は現代の文化・行事にも色濃く残っています。
京都の晴明神社では毎年「晴明祭」が行われ、彼の霊力と偉業をたたえる行事が今も受け継がれています。
そしてフィクションの世界では、晴明は知的で神秘的なヒーローとして何度も描かれ、多くの人々に陰陽道の世界を伝えてきました。
五行要約