
陰陽道(おんみょうどう)は、単なる占いや儀式の体系じゃありません。古代中国の哲学から生まれ、日本の国家制度と結びつくことで高度に制度化された文化的知的技術として発展しました。そのなかでも、とくに平安時代の公家(くげ)文化とのつながりはとても深く、陰陽道は貴族たちの「生活」と「政治」の両面に欠かせない存在だったんです。
このページでは、陰陽道がどうやって公家の文化や制度に組み込まれていったのかを、歴史の流れとともにわかりやすくかみ砕いて解説していきます。
平安貴族たちの生活は、じつはかなり陰陽道づくしでした。たとえば…
こういった行動判断のベースにあったのが陰陽道で、それを支えたのが朝廷に仕える陰陽師たち。つまり陰陽道は、「貴族のマナー」であり「政治の羅針盤」でもあったんです。
陰陽師は、もともと律令国家が設けた陰陽寮という官庁に所属する官人。これは占いや暦だけじゃなく、天文博士・暦博士・陰陽博士など専門職の集まりでした。
つまり、陰陽師ってただの呪術者じゃなくて、国家に仕える公家でもあったんですね。官位も持ってたので、貴族階級のなかでも知識職の一角を担っていた存在でした。
十世紀以降になると、安倍晴明や賀茂忠行といったスター陰陽師の登場で、陰陽道の影響力はさらにアップ。
とくに十干十二支や五行の知識は、公家社会では常識中の常識。「教養ある貴族=陰陽道を理解してる人」ってイメージだったんです。
陰陽師の役割は単なる占いやアドバイスだけじゃありません。天皇の即位儀礼や遷都の儀にも立ち会い、国家の大事に関わる存在でした。
当然、陰陽師たちは政治的にも発言力を持つようになり、時には摂関家との結びつきも強めていきました。こうして陰陽道は、文化であると同時に政治ツールにもなっていったわけです。
鎌倉時代になると、政治の実権は公家から武家へと移ります。それにともなって、陰陽師たちの活躍の場も広がり、公家の枠を超えて武家や庶民の間にも知識が浸透していきました。
とはいえ、そもそもの文化的な基盤はあくまでも公家社会。中世以降に拡がった陰陽道の知識や儀礼も、そのルーツをたどると貴族の宮廷文化にしっかり根付いているんです。
五行要約