
陰陽道っていうと、「呪術」とか「安倍晴明」みたいなイメージが強いかもしれませんが、実は日本文化そのものの深〜い部分に根を下ろしてきたんです。
特におもしろいのは、中国から伝わった考えが、日本独自のカタチで展開し続けてきたってこと。
このページでは、そんな陰陽道の歴史的系譜と日本文化への影響を、時代ごとに整理してわかりやすくかみ砕いて解説していきます!
スタート地点は6世紀ごろ、百済経由で中国思想が日本に上陸したところから。
陰陽五行説や道教・儒教の宇宙観が融合して、天武天皇の時代(675年)には陰陽寮が設置されました。
この時期は、暦や天文、占いが単なる娯楽じゃなく、国家制度の一部として使われていたんです。
「地震は天の怒りだ!」なんて考えもあって、天文異変の観測や報告も政治の一部だったんですね。
貴族文化が花開いた平安時代。ここで陰陽道は文化のど真ん中に躍り出ます。
そしてそんな時代に活躍したのがご存じ安倍晴明!
陰陽寮の陰陽師として、都の設計から宮中儀式、さらには呪術や占術までこなすオールラウンダーです。
陰陽道は神道や密教とも結びついて、「天と人の調和」「秩序のある宇宙」という思想をベースに、文化の深層に根づいていきました。
武士が政権を握ってからも、陰陽道の立場は安泰。
特に足利義満※の時代は陰陽道の黄金期とされていて、幕府儀礼や将軍の即位儀などでも陰陽師が主役として登場してました。
戦の前に方角を見たり、敵地に入るタイミングを占ったり…戦国の知恵袋的な存在としても重要だったんですね。
※足利義満(あしかが よしみつ)
室町幕府第3代将軍(在職1368〜1394年)。南北朝の合一を成し遂げ、幕府の権威を高めた政治手腕で知られる。京都に金閣(鹿苑寺)を建立し、北山文化を築いた文化人でもあった。出家後も実権を握り、朝廷を凌ぐ勢力を誇った。
ここでガラッと様子が変わります。
陰陽道は土御門家という一族のもとで制度化され、暦の作成や祈祷の免許制が整備されます。そしてなんと、庶民の生活の一部に!
陰陽道はすっかり民間信仰として定着し、現代の風習にもつながっていくんです。
明治政府の西洋化政策によって、陰陽寮は廃止され、西洋天文学やカレンダー制度が主流に。
でも、陰陽道が完全に消えたわけじゃありません。
一部は民間信仰や家伝の宗教として受け継がれ、土御門家も宗教法人化して存続しているんです。
吉日選び・厄除け・お札といった風習も、実は陰陽道の名残だったりしますよ。
五行要約