
土御門家──その名を冠する当主たちは、時代ごとに陰陽道の屋台骨を支え、国家や人々の運命を見守り続けてきました。彼らは単なる学者ではなく、天文・占術・暦といった「天の理」を読み解き、王朝の根幹に関わる力を持っていたんです。
このページでは、その中でも特に時代を象徴する5人の歴代当主にフォーカスして、その人物像と役割をひも解いていきます。
安倍晴明は、平安中期に活躍した陰陽師の代名詞とも言える人物。50歳を過ぎてから陰陽寮で頭角を現し、ついには陰陽頭にまで昇進しました。
彼の凄みは「実在の官人」でありながら、「妖怪とも戦った」という伝承まで生んでしまったこと。現代でいうところの科学者+祈祷師+官僚というハイブリッドな立場を確立し、その子孫がのちの土御門家となるんです。
平安の終わりから時代が流れ、土御門有宣は安倍姓を名乗りつつ「土御門家」として自立した最初期の人物とされます。
当時の京は応仁の乱※で大混乱。有宣は命を守るため若狭国名田庄へ移住し、そこに陰陽道の拠点を築きました。武士と乱世の時代に、陰陽の火を絶やさなかった縁の下の功労者です。
※応仁の乱(おうにんのらん)
1467年から11年にわたり続いた内乱で、室町幕府の後継争いや守護大名同士の対立が原因。東軍(足利義政の弟・義視派)と西軍(義政の子・義尚派)に分かれて全国を巻き込み、京都は荒廃。戦国時代への幕開けとされ、日本の中世社会を大きく変えた。
戦国が終わり、徳川家康が幕府を開く頃、土御門久脩は朝廷と幕府の両方から陰陽道を委任され、従三位に任ぜられるなど高い地位を得ました。
特に彼が担った暦の制定と天文観測は、当時の国家運営にとって不可欠。戦国を生き延び、江戸の秩序構築に貢献した重鎮と言えます。
江戸時代中期の泰福は、もはや土御門家=陰陽道の宗家とするにふさわしい存在。全国の陰陽師を統括する地位を得て、垂加神道※を取り入れて宗教的な厚みも加えました。
この頃の土御門家は、いわば制度としての陰陽道の中心。朝廷儀礼から幕府の占星業務、地方陰陽師の免許制度まで広く統率していました。
※垂加神道(すいかしんとう)
江戸時代前期の儒学者・山崎闇斎が唱えた神道理論で、儒教(特に朱子学)と神道を融合。天皇中心の尊王思想と道徳重視を特徴とし、のちの水戸学や尊王攘夷思想に影響を与えた。「神儒一致」を掲げ、日本固有の信仰と儒理を統合しようとした体系的神道。
幕末になると、天社禁止令※が発令され、天文方や陰陽寮の解体が進行。そんな中でも土御門晴雄は陰陽道の正統性を守るために奔走しました。
華族として子爵に列せられるものの、制度的には千年続いた陰陽寮が終わりを告げるという歴史的局面。晴雄はまさに「最後の公的陰陽師」と言える存在だったのです。
※天社禁止令(てんしゃきんしれい)
明治3年(1870年)閏10月17日、太政官布告第745号として出された法令で、陰陽道(天社神道)の公的活動や職業としての実践が全面的に禁止された。文明開化の中で陰陽師(土御門家など)は迷信とされ、暦や占術に関わる特権を国家が掌握することが目的だった。
五行要約