
京都の地に深く根差し、陰陽道の根幹を担ってきた賀茂氏。そして、江戸幕府を樹立し日本を統治した徳川氏。この二つの勢力、一見交わらぬようでいて、実は驚くほど濃い縁があるんです。特に象徴的なのが「葵紋(あおいもん)」の共有、そして陰陽道という共通の文化的基盤。このページでは、賀茂氏と徳川家の“ただならぬ”関係を、陰陽道を軸にわかりやすくかみ砕いて解説します。
あの有名な徳川家三つ葉葵の家紋、実は賀茂神社の二葉葵が元ネタなんです。京都の上賀茂神社・下鴨神社では、葵の葉を神紋として古くから使ってきました。
徳川家康はこの紋に深く感銘を受け、江戸幕府の象徴として正式採用。なんと幕府の時代には、「葵の御紋」を無断で使うのは禁止されていたほど。
実際、江戸時代には賀茂神社から将軍家に葵の葉を献上する「葵使」という儀式まで行われていて、形式的なつながりではなく、かなりガチの信仰関係だったことがわかります。
徳川家の前身である松平氏がいた三河国(いまの愛知県東部)にも賀茂神社があり、地域の守り神として信仰されていました。家康はその信仰を引き継ぎ、江戸幕府のトップになってからも賀茂信仰を大事にしたんです。
つまり、三つ葉葵は単なるデザインじゃなくて、「賀茂の神の加護を受ける家ですよ」という霊的なシンボルでもあったわけですね。
徳川家康といえば、戦国を終わらせたリアリスト。でも実はかなりのスピリチュアル信仰者でもありました。日光東照宮の配置や江戸城の建設方位、さらには将軍宣下のタイミングまで、陰陽道の風水・方位・運気にバッチリ基づいて決めていたんです。
家康が自分の政治に陰陽道の知見を取り込もうとしていたことは間違いなく、それを支えたのが、あの土御門家や、賀茂氏の流れをくむ陰陽師たちだったんですね。
江戸時代中期には、幕府が陰陽師に「ライセンス制」を導入。これ、まさに国家資格みたいなもので、勝手に占いや呪術をやっちゃダメ!って制度です。その発行元となったのが、土御門家や幸徳井家など、賀茂氏系の陰陽師。
この体制整備によって、陰陽道は幕府公認の「国家儀礼テクノロジー」みたいな位置づけに。暦の制定も、すべて陰陽道をベースにしたもので、五行や干支の計算が政策の根本になってたんですよ。
一部では「松平氏=賀茂氏の末裔」という説もありますが、これは伝承レベルで、史料的な裏付けはほぼナシ。むしろ、源氏や藤原氏の系統を装った方が公式には認められやすかったので、家康もそっちを重視していた様子です。
でも、たとえ血がつながっていなくても、信仰・神紋・陰陽思想の継承という文化的なラインでは、賀茂氏の遺産はしっかり徳川家に受け継がれていたといえるでしょう。
五行要約