
陰陽道(おんみょうどう)って聞くと、「呪術」や「占い」のイメージが先行しがちですが、じつはその本質はもっと国家のど真ん中にありました。
そう、政治の道具として、ガッツリと使われていたんです。
聖徳太子や天武天皇の時代から始まり、源頼朝や徳川家康にまで及んだこの「国家×陰陽」の歴史。このページでは、日本の政治と陰陽道の深〜い関係を時代順にわかりやすくかみ砕いて解説します!
陰陽道は、5〜6世紀に中国から伝わり、百済経由で日本へと伝来。
6世紀には聖徳太子が政治制度に取り入れたとされ、暦・天文・方術の知識は国の運営に不可欠なものに。
そして、天武天皇の時代(7世紀)には、国家直属の官庁陰陽寮が設置されました。701年の大宝律令で正式に制度化され、
という技術官僚が朝廷に所属するようになったんです。これがもう、国家の暦づくりや災厄回避、吉凶判断のすべてに関わってくるんだから、まさに「国家の知恵袋」ってわけ。
平安時代になると、陰陽道はさらに政治の奥深くに入り込みます。
藤原氏による摂関政治の中で、陰陽師は政権のアドバイザーとしても機能。
都の造営、遷都、地鎮祭、さらには災厄対応や怨霊対策にまで、彼らの知識がフル稼働。
この頃に登場するのが賀茂家と安倍家という二大陰陽師家系。とくに安倍晴明は天皇・藤原氏の信頼を一身に集め、政治決定にも影響を与えていたとされます。
院政期(11世紀以降)は、政治が混乱し、災害も多発した時代。
このとき陰陽師は、災厄封じ・怨霊対策・占術で社会全体を支える役割を強めました。
そして鎌倉時代になると、今度は武士階級に陰陽道が取り入れられます。
それまで“貴族の道具”だった陰陽道が、ここで武家政権にも採用されるわけですね。
戦国の混乱でいったん力を失った陰陽道ですが、徳川家康が再び光を当てます。
土御門家を中心に陰陽師が幕府の公務を担い、
江戸時代の陰陽道は、「国家に公認された呪術」として制度の中にがっちり組み込まれていきました。
明治政府は西洋化と合理主義を推進。
1870年には陰陽寮の廃止、陰陽道は禁止対象(天社禁制令)となります。
でも、その後の戦後の宗教自由化で民間信仰として復活。1950年代以降は、スピリチュアル文化・伝統行事の文脈で残り続け、
こういった形で今も生活の中に息づいているんです。
五行要約