

妖怪──それは、人々の恐れと想像が生んだ不思議な存在。
でも陰陽師たちは、それをただの“こわいもの”として見ていたわけじゃないんです。彼らにとって妖怪とは、人と異界のあいだに立つ存在であり、ときに退け、ときに受け入れるべき“自然の一部”でもありました。
そんな陰陽師の中でも、とびきり有名なのが安倍晴明。彼は妖怪とどう向き合い、どんな術で対抗したのか──残された数々の伝説をひもときながら、「陰陽師にとっての妖怪退治とは何だったのか」を見ていきましょう。
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まだ幼い安倍晴明が、師の賀茂忠行(かものただゆき)と夜道を歩いていたときのこと。
ふと立ち止まった晴明の目に映ったのは──闇の中をぞろぞろと行進する無数の妖怪たち。そう、あの百鬼夜行(ひゃっきやこう)だったといわれています。
忠行には何も見えなかったそうですが、晴明だけが“異界の気配”を感じ取っていたんです。
その瞬間、晴明は師を守るために立ち止まり、危険を知らせたとか。
この出来事がきっかけで、晴明は人ならざる存在を見抜く力を持つ少年として知られるようになりました。
まさにこの体験こそ、のちに数々の妖怪退治へとつながっていく、彼の“原点”だったのです。
このエピソードは『今昔物語集』にも載っていて、夜の京の町を進む忠行の牛車の前方から、ただならぬ気が漂ってきた──そう書かれています。
晴明はその気配を察知し、忠行を起こして難を逃れたといいます。 つまり、この出来事こそが「晴明伝説の幕開け」だったんですね。
当時、京都の一条戻橋のあたりは、「現世と異界の境界線」として恐れられていました。
まさにその橋のそばで起きたこの出来事が、晴明が陰陽師として覚醒する瞬間だったとも伝えられています。
忠行も、この夜に晴明の特別な資質をはっきりと感じ取ったのでしょう。
このあと彼は、晴明に式神の使い方や占術の秘伝を授け、真の陰陽師として育てていったと語り継がれています。
都を騒がせた鬼のボス、酒呑童子(しゅてんどうじ)の討伐にも、実は安倍晴明が深く関わっていた──そんな言い伝えが残っています。
表では源頼光たち武士が刀をふるっていましたが、その裏で、晴明は結界を張ったり、妖気の流れを断ち切る術を授けていたんだとか。
晴明がやっていたのは、「倒す」ことじゃなくて、「封じて、力をコントロールする」こと。
こういう姿勢からもわかるとおり、陰陽師って、ただの退魔師じゃなかったんです。むしろ呪術の仕組みを探る研究者みたいな存在だったんですね。
当時の都では、姫君たちの行方不明が相次いでいて……その原因を占った晴明が、「大江山に鬼がいる!」って朝廷に報告したことで、討伐が決まったといわれています。
出発する頼光と四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)には、晴明が日取りと方位を選んで霊的なサポートまでしてくれたそう。 つまり晴明は、刀を持たないもう一人のヒーローだったんです。
この「術で支える」という立ち位置こそが、陰陽師の真骨頂。
晴明は鬼の力を封じて、ふたたび都に災いが戻らないように結界と呪法を重ねたって言われていて──
その後も大江山は、長いあいだ“封印の地”として語り継がれていったんですね。
鬼女茨木童子(いばらきどうじ)が、武士の渡辺綱(わたなべのつな)に腕を切り落とされた──そんな伝説、聞いたことありますか?
でも話はそれだけじゃ終わらないんです。問題は、その腕に残った妖気。とんでもなく強い呪力がこもっていて、下手に扱えば都を揺るがす災いになる可能性すらあったとか。
この危険をいち早く察知したのが、やっぱり安倍晴明。占術でその呪力を読み取り、「これはまずい!」と封印の儀式に踏み切ったと言われています。
ここで注目すべきなのが、陰陽師の役割。晴明はただ鬼を「倒す」だけじゃなくて、災いの核を鎮め、封じるというアプローチを取っていたんですね。まさに陰陽師ならではの視点。
晴明は綱に、「物忌(ものいみ)を行って、誰も屋敷に入れるな」と厳命したそうです。その間、晴明はずっと仁王経を唱え続け、呪力の暴走を抑え込んでいたんだとか。 つまり晴明にとって、切り離された腕は“討ち果たした証”じゃなくて、“今まさに封じねばならぬ魔の本体”だったんです。
その後、茨木童子は女の姿に化けて屋敷を訪れ、封じられていた腕を奪い返した……なんて話もありますが、それっきり鬼は都に現れなくなったと伝えられています。
この逸話から見えてくるのは、晴明の術がただの退治じゃないってこと。 異界の力を調伏し、この世の秩序を保つ──それこそが、陰陽道の真髄なんです。
京都・六角通には、夜な夜な犬神が現れて人を脅かしていた……そんなちょっと怖い伝説が残っています。
この怪異に立ち向かったのが、そう、あの安倍晴明なんです。
犬神は、犬の霊が変化したものとも、呪術で生み出されたものとも言われる動物霊の一種。ほうっておくと人の心を乱し、町の秩序を崩しかねない存在でした。
晴明はその力を鎮め、再び町に落ち着きをもたらしたと伝えられています。
ここからもわかるように、陰陽師って宮中の儀式だけをやってたわけじゃないんです。実際の町の暮らしを守る、地に足のついた存在でもあったんですね。
当時の陰陽師には、宮廷の暦づくりや呪術だけじゃなく、都市全体の結界管理や方位調整といった仕事もありました。
とくに六角通のあたりは、昔から「霊の通り道」とされていた場所で、犬神のような霊が出るのは、地脈や気の乱れが原因だと考えられていたんです。
この伝承が語るのは、晴明が人々の暮らしを見守る“町の守護者”だったってこと。
たとえば晴明神社に刻まれた五芒星は、都の鬼門を封じるためのシンボルですが、それと同じように犬神祓いの話も、陰陽師が土地と人の心のバランスを整える存在だったことを伝えているんですね。
そうやって、晴明は“霊”だけじゃなく“町”と“人”も見ていた──
そんなあたたかい視線が、今も京都の空気の中に息づいているのかもしれません。
追儺(ついな)という宮中の儀式、ご存じですか?
年の終わりに、鬼や疫神を追い払って新しい年を迎える──そんな祈りを込めた一大イベントなんです。この行事にも、もちろん安倍晴明は深く関わっていました。
追儺はただの鬼ごっこじゃありません。陰陽師たちは呪文や印(いん)を用い、国全体の厄を祓う“儀礼のプロフェッショナル”として動いていたんです。
この背景には、「妖怪退治=国家安定のための祈祷」という思想があるんですね。
つまり、妖怪を祓うっていう行為は、社会を整える国家的な神事でもあったわけです。
追儺は、内裏の南庭で行われる年越しの鬼払い。じつはこれ、現代の「節分」のルーツとされてるんです。
まず、陰陽師が祭文を唱えて道教の神さまたちを呼び寄せ、乱れた方位を正して場を整えます。
続いて登場するのが、「儺人(なびと)」や「方相氏(ほうそうし)」。彼らは桃の弓と葦の矢を持って、鬼を象徴する存在を追い払う所作を行いました。
この一連の流れによって、人々は心も空間も清らかにして、新しい年を迎える準備を整えていたんですね。
安倍晴明は、この儀式の設計や吉日選びを任されていたとも伝えられていて、
追儺の場こそ、まさに彼が天と地、人と神の“間”を調える陰陽師としての力量を発揮する舞台だったんです。
五行要約
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