
陰陽道(おんみょうどう)というと、アニメや映画で活躍する呪術師のイメージが強いかもしれませんが、実は日本の祭祀文化を語るうえで、欠かせないキープレイヤーだったりします。
古代中国の陰陽五行思想をルーツに持つ陰陽道は、日本に渡ってから独自進化を遂げました。とくに、奈良〜平安時代にかけては、国家儀礼の中心に据えられるまでに重宝されていたんです。
このページでは、そんな陰陽道が日本の祭りや祈りの文化とどう関わってきたのか、どんな特徴があるのかを、歴史の流れにそってわかりやすくかみ砕いて解説します!
5〜7世紀の飛鳥時代、日本にやってきたのが陰陽五行説と暦法。これらを持ち込んだのは、百済など朝鮮半島からの学者たちでした。
そして、この思想にまずハマったのが聖徳太子※。
彼が政治制度にこれらを応用していった結果、律令制度の一環として陰陽寮という官庁まで作られちゃいます。ここでは天文観測・暦の制定・占い・時刻管理などが行われ、まさに「国家の時間と空間を司るプロ集団」だったわけです。
※聖徳太子(しょうとくたいし)
飛鳥時代の皇族・政治家(厩戸皇子)。推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法を制定し、中央集権体制の基礎を築いた。仏教の興隆にも尽力し、法隆寺の建立など文化的貢献も大きい。後世に理想的政治家として崇敬された。
やがて時代は平安へ。陰陽寮の知識は政治や国家儀礼だけでなく、貴族の日常生活にも浸透していきます。
こうした場面に、陰陽師が呼ばれるのが当たり前に。「占い屋さん」じゃなくて、「国家公認の祭祀プランナー」みたいな存在だったんですね。
陰陽道の祭祀には、とにかくバリエーションが多い! たとえば……
特に北極星(北辰)や北斗七星に対する信仰は強く、天皇即位や大災厄のときにも執り行われたほど。空を読み解いて「人と宇宙をつなぐ」って、ちょっとロマンありますよね。
有名な祇園祭も、実は陰陽道の影響を受けたお祭りのひとつ。祇園祭は「疫病退散」のための行事ですが、これは牛頭天王信仰と呼ばれる、陰陽道由来の「疫神観念」がベースになっています。
神様への奉納だけでなく、街を清める「お祓い」としての意味合いもあり、陰陽師の結界術や方除けの考え方が根っこにあるんですよ。
陰陽道の祭祀文化って、「宗教」「科学」「生活実践」が全部入り。構造としては、こんな四層に分けられます。
つまり、陰陽道って「スピリチュアル」だけじゃなくて、社会の仕組みそのものだったんです。
五行要約