陰陽五行説の起源|いつから始まった?その発生と展開について

陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)は、古代中国で生まれた壮大な宇宙観。自然のしくみから人の運命、国の盛衰にいたるまでを「陰陽」と「五行」という2つの柱で説明しようとしたこの思想は、単なる哲学にとどまらず、医学・政治・占術・暦法など、あらゆる領域に影響を及ぼしました。

 

でも、いったいこの考え方は、いつ、どこで、どうやって生まれたのか?このページでは、その起源から歴史的な展開、日本への伝来まで、時代ごとにくっきり整理して紹介します!

 

 

h3
神話時代の自然観から萌芽が始まった

陰陽五行説のルーツは、実はものすごく古いんです。伝説によれば、中国の神話時代に登場する伏羲(ふっき)女カ(じょか)が天地の秩序を整えたとされ、特に伏羲は八卦(はっけ)という「自然のパターン」を図にしたと伝えられています。

 

この八卦が、「陰」と「陽」という2つの気の組み合わせでできていることから、すでにこの時代に陰陽思想の萌芽があったことがうかがえます。

 

また、五行についても、山・川・火・金属・木などの自然物に神霊的な力があると考えられており、後の五行思想の土台ができあがっていきました。

 

h3
春秋戦国時代に思想として結晶化

紀元前770〜221年の春秋戦国時代になると、陰陽と五行はそれぞれ哲学思想として明確な形を取り始めます。

 

陰陽説の成立

陰陽説は、スウ衍(すうえん)という人物が体系化したとされ、「陰は静かで冷たい」「陽は動的で熱い」といった、相反しながらも補い合う宇宙の法則として説かれました。

 

五行説の成立

五行説もこの時期に発展し、自然界の変化を木・火・土・金・水の5つの要素で説明する理論として登場します。

 

当時は諸子百家の時代。儒家・道家などさまざまな思想が生まれる中で、陰陽家と呼ばれる人々がこの理論を深めていきました。

 

h3
前漢期に統合され国家理論へと進化

紀元前2世紀ごろ、前漢の武帝の時代になると、陰陽と五行は単なる自然思想ではなく、政治の正当性を支える国家理論へと大進化します。

 

この功績を担ったのが、儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ)

 

彼は「天地の理に従う王が天命を得る」として、陰陽五行思想+儒教を融合し、王朝と天意の関係を「災異思想」として確立させました。

 

こうして、天変地異は「政治への警告」と見なされ、天子(皇帝)の正当性を支える重要なロジックになっていったんです。

 

h3
医学・天文・暦法・占術へ応用が拡大

陰陽五行説は、やがて中国古代の学問体系の核としてあらゆる分野に展開します。

 

  • 医学:五臓六腑を五行に対応させ、気・血・津液のバランスを重視
  • 天文:天体運行や星の配置にも陰陽と五行が使われた
  • 暦法:干支・節気とセットで年中行事や天気を予測
  • 占術:命理(四柱推命、算命)、方位術、風水に展開

 

この時代には、学者だけでなく、医師や占い師、天文学者たちが実務的に陰陽五行を活用し始めます。

 

h3
日本への伝来と陰陽道への変化

日本には6世紀ごろ、朝鮮半島経由でこの思想が伝わってきます。とくに百済の僧・観勒(かんろく)が暦法や『易経』を持ち込み、聖徳太子の制度改革に取り入れたという話も。

 

そして飛鳥時代には陰陽寮が設置され、天文・暦・方位・占いを担当する陰陽師が登場。平安時代には仏教や神道とも融合して陰陽道として確立します。

 

つまり、日本では哲学というより実用術・祭祀文化として陰陽五行が根づいたんですね。

 

五行要約

 
  1. 陰陽五行説は神話時代の自然観から発展した思想!
  2. 春秋戦国時代に哲学として確立され、?衍が体系化!
  3. 前漢の董仲舒が国家理論として整備、天命思想に組み込まれた!
  4. 医学・天文・暦・占いなど、あらゆる実用分野に応用された!
  5. 日本では陰陽道に発展し、祭祀・暦法・方位術に組み込まれた!