陰陽師の活躍から戦国時代の歴史と特徴を探る

陰陽師(おんみょうじ)といえば平安時代のイメージが強いけれど、じつは戦国時代にも、ちゃんと活動してたってご存知でしたか?

 

「呪術と軍略が交差した時代」――それが戦国期の陰陽師の立ち位置なんです。

 

このページでは、戦乱と動乱の戦国時代における陰陽師の役割から、当時の社会や武士文化、思想の変化を読み解いていきます。

 

 

h3
武将たちは陰陽師をどう見ていた?

戦国時代(1467〜1590)になると、それまで貴族社会にどっぷり浸かっていた陰陽師たちは武士社会に進出します。

 

でもこれ、必ずしも歓迎されたわけじゃありません。多くの武将たちは実利主義だったので、占いや呪術に対して懐疑的だったんです。

 

それでも、戦の前に「この日が吉か?」「方角は大丈夫か?」と気にする大名もいて、そんなとき陰陽師は戦勝祈祷や吉凶判断で呼ばれていたんですよ。

 

h3
賀茂在昌や土御門家の“公的な陰陽師”

そんな中、朝廷に仕えながらも織田信長や豊臣秀吉にも関与したのが賀茂在昌(かものありまさ)などの陰陽頭たち。

 

彼らは暦や地相・風水・呪符に関する知識を持ちつつも、政治的な調整役や文化人としても重宝されていました。

 

また、安倍晴明の子孫である土御門家も戦国期を通して命脈を保ち、後に江戸幕府から正式に陰陽道宗家として認定されるまでになります。

 

h3
軍事・城づくりと陰陽思想の融合

戦国期といえば、やっぱりお城。築城の際には、しばしば四神相応風水といった陰陽思想が用いられました。

 

ただし、これは後世の「美化」された側面もあって、当時の築城は主に実用的な防御構造が最優先。とはいえ、都市の配置・家相などでは陰陽師のアドバイスが活かされるケースもあったようです。

 

戦乱の中で、宗教・思想・建築が混ざり合っていく空気感が、当時の文化の特徴でもあります。

 

h3
呪術・占術とキリスト教、信仰の多様化

この時代、日本にはキリスト教も入ってきて、既存の信仰と混ざりあう時期でもありました。

 

陰陽師の中には、新しい思想に触れた者もいて、道教・神道・仏教・キリスト教が共存する中で、祈祷や占術も時に“外交的”な意味を持つようになります。

 

また、鎮宅霊符北斗信仰といった古代中国由来の霊符文化を信じた武将たちもいて、実戦的呪術としての価値も細々と生き残っていたんです。

 

h3
文化と軍略のはざまで進化した陰陽師

戦国時代の陰陽師って、ただの占い師じゃありません。実は天文・暦学・地相学・軍略といった知識を駆使する多機能型の知識人だったんです。

 

しかも、中国の陰陽家の思想(たとえば鄒衍の五徳終始説)と日本独自の文化が混ざり合って、和風陰陽道がさらに深化していく時代でもありました。

 

この変化があったからこそ、江戸時代の“科学としての陰陽道”にスムーズにつながっていったんですね。

 

五行要約

 
  1. 戦国時代、陰陽師は武士社会に進出しつつも立場は揺らいでいた!
  2. 信長・秀吉にも仕えた賀茂在昌らが公的陰陽師として活躍!
  3. 築城・地相・暦など実務的スキルで軍事と文化に関与!
  4. キリスト教や多宗教環境で、信仰と呪術が融合・多様化!
  5. 戦国期は、陰陽師が文化・知識人として進化したターニングポイント!