
安倍晴明といえば「陰陽師の代名詞」みたいな存在ですが、その血筋は時代を越えても人びとの関心を集め続けています。
なかでも注目されるのが、倉橋家(くらはしけ)という家系とのつながり。ちょっとマニアックなテーマですが、陰陽道の継承や江戸〜明治期の歴史にも関わる深い話なんですよ。
このページでは、「安倍晴明と倉橋家の関係」について、系譜的・文化的・歴史的な視点からわかりやすくかみ砕いて解説します。
倉橋家は、安倍晴明の末裔を名乗る土御門家(つちみかどけ)から派生した家系。具体的には、江戸時代初期、土御門久脩(ひさなが)の次男・泰吉が分家して「倉橋」姓を名乗ったことに始まります。
このことから、倉橋家は安倍晴明の家系の“庶流(半家)”とされており、血筋的には直系じゃないけれど、ちゃんとした“晴明ファミリー”に属しているんです。
ただしこの倉橋家、男系の血脈は途中で断絶してしまいます。江戸時代中期、倉橋有儀(ありのり)という人物の代で、実際の安倍家の血筋は終わったとされるんですね。
有儀はもともと宇多源氏の綾小路家の出身で、倉橋家に養子として入った人物。この時点から、いわゆる「血筋としての安倍家」は倉橋家の中でストップしちゃったというわけです。
とはいえ、男系が断絶しても「文化的な継承」はちゃんと続いてました。江戸時代以降も倉橋家は陰陽道の名家として知られ、「安倍晴明の後裔(こうえい)」を名乗り続けていたんです。
この流れは明治以降の華族制度にも影響を与え、土御門家・倉橋家ともに子爵に叙せられ、旧公家の名門として社会的に認知されていました。
ところで「半家(はんけ)」という言い方、あまり聞きなじみがないですよね?これは公家社会の中で、分家した家が本家より一段下の格として位置づけられる呼び方。
倉橋家はまさにその「半家」であり、土御門家の本流に比べて儀礼や官職上の格は下ながらも、確かな系譜を持っていたんです。
現在では、安倍晴明の子孫といえば土御門家を思い浮かべる人が多いですが、実はこの倉橋家も「晴明の末裔」として文化・宗教的に語られることが多いんです。
たとえば、神社由緒書や歴史展示では「倉橋家は安倍晴明の流れをくむ家」と紹介されるケースもあり、実際の血筋の有無にかかわらず、“伝統の象徴”としての役割を果たしてきました。
五行要約