
「陰陽五行説」って聞くと、ちょっと難しそうな印象がありますが、実は私たちの暮らしや歴史の中にしっかり根づいているんです。もともとは別々だった「陰陽説」と「五行説」が合体して、自然・人・社会すべてを説明する壮大な世界観ができあがりました。
このページでは陰陽五行説がどんなふうに広まり、暦や医学にまで応用されていったのかを、時代ごとにわかりやすくかみ砕いて解説します!
まずはそれぞれの起源から。陰陽説は、もともと「日向と日陰」「昼と夜」みたいに、自然界の二面性を表す考え方でした。光と闇、動と静、男と女…対になってるもの全部に関係してくるんですね。
一方、五行説は『書経』※の洪範篇に登場し、木・火・土・金・水という5つの要素が世の中のすべてを構成するという考え方。それぞれが「生み合う(相生)」・「制し合う(相剋)」関係にあるっていう循環がキモです。
この2つの理論がセットになったのが、いわゆる陰陽五行説というわけですね。
※『書経』(しょきょう)
中国最古級の歴史書で、儒教の経典「五経」の一つ。堯・舜・禹から周王朝に至る為政者の言行や政治理念を記録した文書集で、理想的な君主像や統治の道を説く。孔子が編纂に関わったと伝えられる。
紀元前5〜3世紀ごろの戦国時代には、「陰陽家」「五行家」という学派が現れました。代表的なのが鄒衍(すうえん)※で、彼は五行を使って王朝の交替を読み解く五徳終始説を唱えました。
この時代、『呂氏春秋』や『礼記』といったさまざまな思想書にも、陰陽五行の概念がどんどん取り入れられていきました。つまり、いろんな学派がこの考え方を自分たちの理論に組み込んでいたってことなんですね。
※鄒衍(すうえん)
戦国時代の斉の思想家で、陰陽五行説を体系化した人物。陰陽と五行を結びつけ、王朝交代や時代の変遷を説明する理論を構築し、前漢の政治思想に大きな影響を与えた。
時代が進んで漢代に入ると、陰陽五行説は一気に国家公認の理論になります。大きな役割を果たしたのが董仲舒(とうちゅうじょ)※で、彼は陰陽五行説を儒教に統合したんです。
その結果、「天人感応(天の動きが人事に反映される)」とか「災異説(天変地異は政治への警告)」なんて思想が政治にも使われるようになりました。暦の制定、災害の予測、王朝の正当性の根拠にもなってたんです。
※董仲舒(とうちゅうじょ)
前漢中期の儒学者で、儒教を国家統治の正統思想と位置づけた功労者。「天人感応」思想を唱え、陰陽五行説と儒学を融合させた体制思想を確立し、武帝の治世に重用された。
暦法では、「六気」「干支」「太陰暦」「二十四節気」など、全部が陰陽五行と関わってます。季節の流れを「陰陽」で読み解き、「五行」で分類していくって仕組みですね。
医学の分野では、陰陽五行説が人体の構造や病気の原因の解明に応用されました。その集大成が『黄帝内経(こうていだいけい)※』。五臓六腑、気血、水分、感情までもが五行に結びつけられてるんです。
そこから発展して、鍼灸・漢方薬・気功などの治療法も整っていきました。「体のバランスを五行で見る」って発想は、今でも東洋医学の基本になっています。
※黄帝内経(こうていだいけい)
中国最古の医学書で、黄帝と臣下の問答形式で記される。陰陽五行や経絡などの理論を基に、診断・治療・養生法を体系化し、東洋医学の基本書として長く重視された。
日本には5〜6世紀頃、仏教や儒教といっしょに陰陽五行説も伝わってきました。朝廷ではこれを国家制度として取り入れ、陰陽寮という専門機関を設置。天文・暦・風水・祭祀などを扱う陰陽道の基盤ができあがりました。
平安時代になると、安倍晴明のような陰陽師が活躍し、占いや方位術、厄除けの儀式などに陰陽五行を応用。日本独自の進化をとげていくんですね。
五行要約