土御門家の分家「倉橋家」とは

土御門家の分家「倉橋家」とは

「倉橋家」というのは、陰陽道で名を馳せた宗家である土御門家の分流にあたる家系だ。倉橋家は安倍氏出身で、土御門家の次男を始祖として陰陽師の職を継承し、家格は半家、明治期には華族として子爵に叙された。陰陽師の家業を担いながら、公家的な地位を維持したこの分家は、陰陽道の伝統を広く支えた存在であるといえる。

宗家を支えた影の継承者──土御門家の血脈を守る「倉橋家」を紐解く

土御門家の名を継ぐ分家、それが倉橋家──陰陽道を専門とし、幕府や朝廷の儀礼にも深く関わったもう一つの名門家系です。


このページでは、「倉橋家とはいったい何者なのか?」という疑問にこたえるべく、その起源から現代までの流れ、歴代当主の動向までを一気にたどってみましょう。



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倉橋家は土御門久脩の次男からはじまった

倉橋家は、陰陽道の宗家土御門久脩の次男・倉橋泰吉が慶長17年(1612年)に創始した家系です。土御門家の庶流ながらも、陰陽寮に深く関わり、朝廷儀礼などで大きな存在感を放ちました。


江戸時代には公家(半家)として堂上家の地位を獲得し、明治以降は子爵家として華族に列しました。家紋は揚羽蝶で、これは安倍晴明の流れを象徴する家系に共通するモチーフです。


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陰陽道の正統を補完した存在

もともと宗家である土御門家が、江戸中期に男系を断絶してしまったため、その後は倉橋家が宗家の後継者として実務を担うケースも多くなります。


特に倉橋有儀は、陰陽道における安倍晴明の男系最後の当主とされ、彼の存在が一族の歴史的意義をより強固なものにしました。


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明治期に華族へと転身

倉橋家は明治17年(1884年)倉橋泰顕が子爵に叙されて華族の仲間入りを果たします。これは「旧堂上家資格」によるもので、陰陽道の名門としての格を保ったかたちです。


ところが、大正期に当主倉橋泰昌が後継を残さず没したため爵位は返上。ただし、一族としての家系は女系・養子を経て今も受け継がれているんですよ。


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現代の倉橋家はどうなっている?

現代の倉橋家には、倉橋純信氏(1936年生)、倉橋輝行氏(1972年生)といった人物が存在し、公式の陰陽道活動こそしていないものの、安倍晴明ゆかりの家系として文化的・系譜的な意味合いでの継承が続いています。


陰陽師という職業こそなくなりましたが、「名跡」としての重みは残っているわけです。


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庶流だからこそ支えられた伝統

倉橋家は宗家を支える影の継承者として、江戸~明治にかけて陰陽道の伝統を維持してきました。とくに、男系が絶えた後の緩衝的な役割は非常に重要だったといえます。


晴明の名を護り、神事を守る──その地道な努力があったからこそ、陰陽道の系譜が今日まで語り継がれているのかもしれません。


五行要約

 
  1. 倉橋家は土御門久脩の次男から始まった分家!
  2. 陰陽寮や朝廷儀礼で活躍し、宗家を補完した存在!
  3. 江戸後期には晴明の男系最後の当主も輩出!
  4. 明治には子爵に叙され、華族として生き延びた!
  5. 現代も女系・養子で名跡は継続されている!