
安倍晴明って、あまり家庭の話がクローズアップされないけど、「子どもはいたの?」「どんな人物に育ったの?」って気になりませんか?
実は、史実に名を残す息子が2人いて、どちらも宮廷で活躍してたんですよ。しかも、伝説やフィクションでは娘の存在まで語られてたりもするんです!
このページでは、晴明の子どもたちにまつわる事実と伝説を、親しみやすく紹介していきます。
まずは晴明の長男とされる安倍吉平(よしひら)から。
彼は陰陽助→天文博士とキャリアを重ねて、最終的には従四位上という位階まで昇進。これは貴族としてかなり上のランクなんです。
しかも、一条天皇や藤原道長といった大物たちにも重用されていたというから、ただの二代目ではない実力者だった様子。
子どももたくさんいたようで、安倍時親、平算、国時、章親、奉親など、名前が史料に残っています。つまり、晴明の家系はこの吉平の子孫を通じてどんどん広がっていったんですね。
そしてもう一人、弟の安倍吉昌(よしまさ)。
こちらも天文博士、そして陰陽道のトップ職である陰陽頭(おんみょうのかみ)にまで出世しています。
ただ、吉平に比べると記録は少なめ。息子も「一人だけ」「しかも養子かも?」という説があるんです。ちょっと謎が多めの人ですが、官僚としてしっかりキャリアを築いていたことは間違いありません。
史料上は、晴明に娘がいたという確かな記録はないんです。でも、伝説や小説の世界では、「葛葉の血を引く美しい娘」や「父の術を継いだ巫女的な存在」なんかがちらほら登場してきます。
とくに現代の創作物では「晴明の娘」を主人公にした物語もあったりして、想像の世界では人気キャラなんですよ。
ただしこれらはあくまで創作ベースなので、史実としては息子たちだけが確認できる子どもと考えた方がよさそうですね。
吉平・吉昌のふたりは、父の仕事である陰陽道・天文道をそのまま継承しました。つまり晴明の力は、単に“伝説的な力”だけじゃなく、実務としての占術・暦・天文という技術もしっかりと受け継がれていたということなんです。
そしてこの流れが、のちの土御門家へとつながっていき、江戸時代まで「安倍晴明の家」として続いていくことになります。
晴明の孫世代以降になると、男系が絶えた時期もありました。でもその都度、養子縁組や女系の血縁によって家は保たれ、土御門家を中心に「陰陽師家」はしっかりと続いていきました。
それだけ晴明の血統=陰陽道の象徴として、周囲の人々からも重んじられていたってことですよね。
五行要約