
賀茂氏の家紋「葵紋」
陰陽道の担い手であった賀茂氏の象徴とされる「二葉葵」の家紋。葵紋は神聖な植物として信仰され、賀茂神社との関係も深い
出典:Public domain / Wikimedia Commonsより
「陰陽師といえば安倍晴明」というくらい、今や晴明が陰陽師の代名詞的存在となっていますが、彼を語る上でその師匠賀茂氏(かものうじ)の存在は無視できません。
それというのも、晴明があれだけ名を残せたのも、この賀茂一族のバックアップがあったからです。このページでは、神道と陰陽道の両方を支えてきた賀茂氏の由来・活躍・影響について、時代を追いながらわかりやすくかみ砕いて解説します!
賀茂氏は、奈良時代以前から存在していた古代豪族で、ルーツは大和国葛城地方とされています。祖先はなんと出雲系の神「味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」。この神様、実はスサノオの息子でもあるんですよ。
スサノオと水龍(八岐大蛇)
スサノオが八岐大蛇を退治する場面。賀茂氏の神話的ルーツに関わる作品。
出典:Public domain / Wikimedia Commonsより
やがて京都の地に移り住み、上賀茂神社・下鴨神社(あわせて賀茂社)を祀る神官一族として名を上げていきます。こうして、「神を祀る家」としての役割が定着していったんです。
神道だけじゃありません。賀茂氏は陰陽道の世界でも重要なポジションを担いました。なかでも有名なのが、平安時代の賀茂忠行(かものただゆき)と賀茂保憲(かものやすのり)の親子コンビ。
百鬼夜行
『今昔物語集』において、陰陽師・賀茂忠行が内裏からの帰途、幼い安倍晴明に呼び止められ百鬼夜行に遭遇。晴明の霊視力により災厄を回避し、以後忠行は晴明を弟子として育てたという。
出典:河鍋暁斎/Wikipedia Commons Public Domainより
忠行は陰陽寮に仕え、占術や天文に通じたスーパー陰陽師。あの安倍晴明の師匠でもあり、晴明の才能をいち早く見出した人なんです。そして息子の保憲は、暦法に精通し、日本の暦づくりに大きな影響を与えました。
この2人によって、賀茂氏は陰陽道の宗家としての地位を確立。「天文・暦・呪術」という陰陽道三大分野の中心にいたわけですね。
賀茂忠行に才能を認められた安倍晴明は、のちに天文道の後継者として指名されます。一方、保憲が暦道を継承。これにより賀茂家=暦道、安倍家=天文道という住み分けが始まり、陰陽道の主導権を「安賀両家」が握る時代がスタートします。
この連携関係があったからこそ、陰陽道は制度として発展していったとも言えるんですね。
賀茂氏が関わった賀茂祭(現在の葵祭)は、京都三大祭のひとつ。もともとは賀茂社の神職たちが主導していた祭事で、平安貴族の暮らしや信仰を象徴するイベントとなっていきました。
葵祭の斎王代による御禊の儀
葵祭において、斎王代が心身を清める儀式として、御手洗川で両手を水に浸す
出典: Photo by Hahifuheho/ Wikimedia Commons CC0 1.0より
神道の祭祀・儀式と、陰陽道の吉凶判断や暦術が一体化していたことも、賀茂氏の独自性だったんです。
賀茂氏の活動は、神道・陰陽道・暦法・儀式文化すべてに関係していて、日本の宗教的実務を支えるインフラ的存在だったと言えます。
絵巻物や物語にもその名が登場し、現代の神社行事や観光文化にも息づいています。まさに、「古代日本の宗教と学問の架け橋」だったんですね。
五行要約