
陰陽師といえば安倍晴明・・・そしてその子孫である土御門家(つちみかどけ)が圧倒的な知名度を誇っています。でも、この一族がどんなふうに「陰陽道の総本家」となっていったのか、意外と知られていないかもしれません。
そこでこのページでは、安倍晴明の後裔として陰陽師界の頂点に君臨した土御門家の歴史を、史実や伝承をまじえてわかりやすくかみ砕いて解説します!
土御門家は、平安時代のスーパー陰陽師安倍晴明の直系子孫とされる一族で、彼の五代孫・安倍泰親(やすちか)が拠点とした若狭国名田庄の地名「土御門」から、この名を家名として名乗るようになりました。
つまり、「安倍家」としての伝統を引き継ぎながら、新しい土地の名で家名を再構成したってことですね。それが後のち、「陰陽道の総本山」とまで言われるようになったのです。
陰陽師・安倍晴明(菊池容斎画)
鎌倉〜江戸時代にかけて、陰陽寮という国家機関で陰陽道を扱う実務は、この土御門家がほぼ独占的に担っていました。特に江戸時代には、「陰陽頭(おんみょうのかみ)」という陰陽寮トップのポジションを代々受け継ぎ、幕府公認で全国の陰陽師を統括していたんです。
1683年には、後水尾天皇から「陰陽道の全国統括権」を正式に認められ、さらに徳川綱吉の時代にも朱印状が発行され、その権威はバッチリ保証されました。
後水尾天皇の肖像
江戸時代初期の天皇。陰陽道の全国統括権を土御門家に付与し、同家が儀礼や暦の制定など国家儀式に深く関与するきっかけを作った。
出典:Faithful photographic reproduction of a public domain work / Wikimedia Commonsより
「呪術とか妖怪退治の家系でしょ?」って思うかもしれませんが、実は天文観測や暦づくりも土御門家の大事な仕事。星の動きや季節の変化を読み取って、カレンダーを作るっていう、今で言う「科学者」的な一面もあったんですよ。
福井県おおい町には、そんな土御門家の功績を伝える「暦会館」もあります。明治には、家伝の天文記録が宮内庁書陵部に納められるほど、学術的な評価も高かったんです。
渾天儀(こんてんぎ)
天文観測および暦の製作に用いた天球儀
出典:Armillary sphere, Plate LXXXVII / Public domainより
土御門家もずっと順風満帆だったわけではなく、戦国時代や豊臣政権下では一時的に地位を失う時期も。でも江戸幕府の庇護によって復活、以後は陰陽道の形式的継承者として安定した地位を保ちました。
土御門晴栄
1869年(明治2年)に当主を継いだが、まもなく天社禁止令により陰陽寮が廃止となった。事実上、最後の陰陽師といえる。
出典:Unknown author / Wikimedia Commons - Public domain
しかし、明治維新中に発令された天社禁止令で陰陽寮が廃止されると、その官職的な地位も失い、華族(子爵家)として残る形に。社会の構造が変わる中で、実務家から文化的象徴へと役割を変えていったんですね。
これまで「天社神道」と称し、土御門家から免許を受けた者たちが、帯刀したり、絵符(陰陽道の標や護符など)を掲げて宿場や駅を自由に通行していたという。これはまったく道理にかなわないことであるため、今後そのような行為はすべて禁止とする。また、今後は門人(弟子)の免許についても一切を禁じるよう、今回、土御門和丸(※当時の土御門家の当主)に対して正式に命令が下された。したがって、府・藩・県においても、この命令の趣旨を十分に理解し、所管の地域内でしっかりと取り締まりを行うこと。
陰陽寮廃止の一環として出された天社禁止令の条文の現代語訳
出典:『法令全書 明治3年』第七百四十五の項)/国立国会図書館デジタルコレクションより
土御門家が陰陽道の「家元」として信頼され続けたのには、いくつかの理由があります。
つまり、超常的な力を「持ってる」と信じさせる構造が、権威の源だったとも言えるんです。
五行要約