
陰陽師(おんみょうじ)って聞くと、映画やアニメの世界で式神を操る姿を思い浮かべるかもしれませんね。でも実は、あの不思議な存在には、何世紀にもわたるリアルな歴史があるんです!
陰陽師は「国家の役人」から「庶民の祈祷師」、そして「現代カルチャーのアイコン」へと、時代ごとに姿を変えながらも生き続けてきた存在なんですよ。
このページでは、そんな陰陽師の軌跡を古代から現代まで一気にたどってみましょう!
そもそも陰陽五行思想って、中国の殷や周の時代に生まれた自然哲学。これが日本にやってきたのは、なんと飛鳥時代!
6世紀〜7世紀ごろ、百済や高句麗の渡来人がこの思想を伝えたとされていて、602年には觀勒(かんろく)というお坊さんが来日して、当時の支配者・聖徳太子に教えたという記録もあるんです。
この頃にはすでに、「占いで国を動かす」くらいの影響力があったってわけですね。
律令制が整備されると、8世紀に陰陽寮っていう国家機関ができて、暦の作成・天体観測・占術なんかを担当する官職としての陰陽師が誕生しました。
平安時代に入ると、陰陽師は大活躍。貴族たちの間で「占い」と「呪術」が超重要になったからです。
この時代のスター陰陽師といえば、やっぱり安倍晴明。彼は天文道・暦道・呪術のすべてに通じたスーパーエリートで、朝廷や貴族からめちゃくちゃ信頼されてました。
不動利益縁起絵巻の一場面
園城寺(三井寺)の縁起『不動利益縁起』絵巻から、安倍晴明が式神2匹を従え、病身身代わりの祈祷を行う中盤の場面
出典: Wikimedia Commons public domainより
なんでも、式神を使って物の怪を退治したり、呪符で悪霊を封じたりと、数々の逸話が伝えられてるんですよ。
しかもこの時期、仮名文字や和歌が流行ってたから、陰陽師の活躍も物語や日記にバンバン記録されてます。たとえば、あの藤原道長の日記『御堂関白記』にも占いのことが書かれてるんですよ。
時は流れて鎌倉〜戦国時代。武士の時代になると、陰陽師の活躍の場は貴族から武士階級へとシフトしていきます。
当時、陰陽寮を実質的に支配していたのは、安倍氏と賀茂氏。賀茂氏は暦のエキスパート、安倍氏(のちの土御門家)は呪術・天文が得意と、分業スタイルだったのも面白いですよね。
また、中央だけじゃなく地方にも陰陽師が登場。宇佐や出雲など、各地に独立系の術者たちが現れて、民間信仰と結びついていくんです。
江戸時代になると、陰陽寮の公的な役割はほとんどなくなってしまいます。でもその代わり、陰陽師は庶民の守り神的存在になっていくんです。
地方では、方角の吉凶や病気除けの相談役として陰陽師が活躍。とくに福井の土御門家は天皇から名字を賜った名門で、都市計画や暦作成なんかにも関わってたんですよ。
土御門家の家紋『揚羽蝶』
出典:Ageha inverted.svg / Public domainより
また、高知のいざなぎ流みたいな独自の呪術体系を持った流派も登場。こうして、陰陽道の知識や技法は地元の文化にしっかり根付いていったんです。
明治時代に入ると、1870年の天社禁止令で陰陽寮は廃止され、1169年も続いた公的陰陽師の時代が終わっちゃいます。
これまで「天社神道」と称し、土御門家から免許を受けた者たちが、帯刀したり、絵符(陰陽道の標や護符など)を掲げて宿場や駅を自由に通行していたという。これはまったく道理にかなわないことであるため、今後そのような行為はすべて禁止とする。また、今後は門人(弟子)の免許についても一切を禁じるよう、今回、土御門和丸(※当時の土御門家の当主)に対して正式に命令が下された。したがって、府・藩・県においても、この命令の趣旨を十分に理解し、所管の地域内でしっかりと取り締まりを行うこと。
陰陽寮廃止の一環として出された天社禁止令の条文の現代語訳
出典:『法令全書 明治3年』第七百四十五の項)/国立国会図書館デジタルコレクションより
でも、それで陰陽師(が作った文化)が完全にいなくなったわけじゃないんです。
実は、暦注・お守り・お札・神楽などの形で、陰陽道のエッセンスはずーっと民間に生き続けてきたんです。
そして最近では、映画『陰陽師0』や大河ドラマ『光る君へ』なんかで再ブーム到来中!若い世代の中でも「陰陽師ってカッコいい!」って再評価されてますよね。
五行要約