
陰陽道って、なんだか不思議でカッコいい響きがありますよね。でも「占いとか呪術っぽい何か?」くらいのイメージで止まっている人も多いんじゃないでしょうか?じつは陰陽道って、ただのオカルトじゃなくて、しっかりした国家公認の知的システムだったんです。
このページではそんな陰陽道の“本当の目的”と定義について、時代背景や思想の成り立ちも交えて、わかりやすくかみ砕いて解説します。
十干・陰陽・五行・方位の関係図
古代中国の陰陽・五行理論に基づき、十干とそれに対応する陰陽の性質、五行(木・火・土・金・水)、および四方+中央の方位関係を総合的に示す図
出典:劉參陽 / Wikimedia Commons パブリックドメインより
まず最初に、陰陽道って何かというと、もともとは中国の陰陽五行思想を土台にした日本独自の知識体系のことなんです。
この2つをベースにして、さらに暦学・天文学・占術・呪術・祭祀などが合体してできたのが、陰陽道なんですね。
その呼び名自体も、実は平安時代の中頃から使われ始めた日本独自の用語。古代中国には「陰陽道」という名前はなかったんですよ。
渾天儀(こんてんぎ)
陰陽師も天文観測に用いた天球儀で、赤道帯や黄道帯などが詳細に示されている図版
出典:Armillary sphere, Plate LXXXVII / Public domainより
じゃあ、そんな陰陽道って何のためにあったのか?
ズバリ、「吉凶を予測し、災厄を避け、人と自然の調和を図ること」が目的でした。
たとえばこんなふうに活用されていました:
こうした術を駆使して、「どう動けば自然の流れに逆らわずに済むのか」を探るのが陰陽師の仕事だったんです。
陰陽道が国家制度とガッツリ結びついたのが天武天皇の時代。
676年に設置された陰陽寮(おんみょうりょう)は、占い師の集まりじゃなくて、れっきとした官庁です。ここに所属していた陰陽師たちは、国家の公式な技術官僚として認められていたんですよ。
任務は多岐にわたっていて、
こういった仕事を通じて、「国家の安全と繁栄」に貢献してたんですね。
董仲舒像(清・1827年刻)
古代中国の儒学者。天人相関説を唱え、自然と人間の調和を説いた。また、『春秋繁露』などで陰陽道の理念と儒教倫理の統合を試みた思想家
出典:孔繼?刻/清1827年石刻/Wikimedia Commons パブリックドメインより
一見すると、「お祓い」や「お札」ばかり目立つ陰陽道ですが、実は哲学や政治理論の一部としても働いていました。
ベースにある考えは、「天と人はつながっている」っていう天人相関の思想。この世で起きる出来事は、天の運行と対応していると考えられていたんです。
だから、単に不安を取り除くとか災いを防ぐだけじゃなくて、国家の統治や社会秩序のあり方にも関わってたんですよ。
大阪天満宮の十二支の方位盤
陰陽道の宇宙観を反映する方位装置であり、酉(鶏)ではなく鳳凰を配置することで学問の神・道真への敬意と不吉除けの意図が込められ、方角への気づきを参拝者の日常に促す重要な構造物
出典:Oilstreet / Wikimedia Commons CCBY-SA 2.5,3.0より
時代が変わって、明治時代に陰陽寮が廃止されてからは、陰陽道も表舞台から姿を消していきました。
でも実はその精神は、私たちの生活の中に今も息づいています。
たとえば、
なんて、いまや気軽に受容されている日本らしい文化ですが、どれもルーツをたどれば、陰陽道の思想に行き着くんです。
五行要約