
陰陽道(おんみょうどう)って聞くと、「呪文」とか「式神」みたいなイメージが先にくるかもしれませんが、実はこれ、れっきとした国家の公式制度だった時代があったんですよ。日本の歴史の中で、朝廷や幕府に採用されたり、逆に「迷信」として排除されたり…陰陽道って、時代によって立ち位置がけっこう変わってきたんです。
そのルーツは、はるか昔の中国。紀元前の古代文明が育んだ陰陽思想と五行説が、日本でじわじわ独自の道を歩みはじめて、ついには陰陽寮という国家機関までできちゃう。そして現代、アニメや映画のキャラとして安倍晴明が人気…という流れ、なんだかスゴイですよね。
このページでは陰陽道がどのように生まれ、発展し、そして変わっていったのかを、時代ごとの流れでわかりやすくかみ砕いて解説します。
十干・陰陽・五行・方位の関係図
古代中国の陰陽・五行理論に基づき、十干とそれに対応する陰陽の性質、五行(木・火・土・金・水)、および四方+中央の方位関係を総合的に示す図
出典:劉參陽 / Wikimedia Commons パブリックドメインより
陰陽道のルーツをたどると、紀元前2000年ごろの古代中国に行き着きます。ここで登場するのが、「陰」と「陽」、そして五行(木・火・土・金・水)という概念。
この二つの思想は、「自然界や人間社会は、相反する要素とその循環で成り立っている」とする古代の知恵で、天体の動きから季節の変化、病気や性格診断にまで使われました。
陰陽は
といった二元性を、五行はそれらの関係性とバランスを解く鍵とされました。
そんな思想が日本に届いたのは6世紀ごろ。朝鮮半島の百済や高句麗の僧や学者たちが、仏教・儒教・暦法とセットで陰陽五行説を持ち込んだんですね。
特に7世紀、天武天皇の時代には、国家制度の一環として採用され、676年には陰陽寮が設置されます。ここは天文や占い、暦作成を担当する官庁で、まさに陰陽師の公式おしごとスタートの瞬間でした。
模型で再現された平安京の全体図
陰陽師が張った結界に守られ、長きに渡りその栄華を保持した平安京
出典:Sakaori / Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0より
9世紀から10世紀にかけて、陰陽道はググッと存在感を増します。特に安倍晴明の登場で、陰陽道の知名度は一気に全国区に!
当時は貴族社会で、方角を気にしたり、厄払いをしたり、何かと陰陽道に頼るシーンが多かったんです。藤原摂関家のような有力家系からも信頼されていて、安倍氏や賀茂氏といった陰陽師の名家が、官位を持って世襲で力をふるっていました。
鎌倉・室町・戦国と時代が進むと、政治の中心が貴族から武士へ移り、朝廷の力が弱まっていきます。すると陰陽寮もだんだんと影が薄くなっていきました。
でも完全に消えたわけじゃなく、民間に広がったんです。庶民のあいだで、方位除けや祈祷などのかたちで生き続けて、地域の陰陽師が「ちょっとした霊能者」的な立場で活躍してました。
江戸時代になると、幕府はニセ陰陽師の取り締まりに本腰を入れます。でも逆に制度としては復活するんです。8代将軍徳川吉宗の時代には、陰陽寮が再整備されて、天文観測や暦作成を担当する実務官僚として再評価されました。
しかし、明治になると流れがガラリ。西洋化と近代化の大波が押し寄せ、1870年に陰陽寮は廃止。長年続いた陰陽師制度も終了し、国家の制度としての陰陽道は幕を閉じました。
これまで「天社神道」と称し、土御門家から免許を受けた者たちが、帯刀したり、絵符(陰陽道の標や護符など)を掲げて宿場や駅を自由に通行していたという。これはまったく道理にかなわないことであるため、今後そのような行為はすべて禁止とする。また、今後は門人(弟子)の免許についても一切を禁じるよう、今回、土御門和丸(※当時の土御門家の当主)に対して正式に命令が下された。したがって、府・藩・県においても、この命令の趣旨を十分に理解し、所管の地域内でしっかりと取り締まりを行うこと。
陰陽寮廃止の一環として出された天社禁止令の条文の現代語訳
出典:『法令全書 明治3年』第七百四十五の項)/国立国会図書館デジタルコレクションより
五行要約