
陰陽師といえば安倍晴明の名ばかりが知られていますが、陰陽師とはかつて実際に存在した官職ですので、当然ながら清明以外にもたくさんの陰陽師がいました。このページでは、陰陽師の祖が生まれた飛鳥時代から、陰陽寮が廃止される明治時代にかけて、各時代で活躍した陰陽師たちを紹介しています。
飛鳥時代は、まだ「陰陽師」という肩書きがあったわけじゃありません。でもこの時期からすでに、天文・暦・呪術的なことを司る制度の土台は作られ始めていたんです。たとえば天武天皇のころには、のちの陰陽寮の前身となるような組織が登場しました。つまり「国家が呪術を整備しはじめた時代」であり、のちの陰陽師たちの活躍を支える基盤となったんですね。
役行者(えんのぎょうじゃ)の彩色木像
陰陽師に準じた修験者として、形代や呪具を用いて呪術・祈願を行った伝説的存在
出典:Photo by Wmpearl / Wikimedia Commons - CC0 1.0
山で修行をして呪術を使うことが出来るようになったと伝えられる人物です。彼は「修験道」の開祖とされる人で、民間に近い立場から神仏とのつながりを重視した呪術的な活動をしていました。
陰陽の世界に重要な影響を与えたのが、高句麗から来た高僧恵慈(えじ)です。595年、推古天皇の時代に渡来し、聖徳太子の師となったことで知られています。彼は三論宗や成実宗という仏教哲学に通じ、単なる宗教者というより、東アジアの宇宙観や因果論に詳しい学僧だったんですね。日本において陰陽五行と仏教が交わっていく土台を築いた人物とも言えるでしょう。
続いて登場するのは、新羅出身の僧旻(そうみん)。彼は遣隋使に同行して中国に渡り、なんと24年間も滞在!その間に易学や仏教をしっかり学んで帰国します。632年、帰ってきた僧旻は、当時の権力者蘇我入鹿らに『周易』を講義したと伝えられています。これにより卜占や天地の理に基づいた思考法が日本の政に浸透していったわけです。
奈良時代に入ると、いよいよ陰陽師が正式な官職として制度化されます。律令体制の一環として中央政府に陰陽寮が設置され、中務省のもとで活動することに。
主な仕事は、暦の作成、祭祀、天文観測などで、まさに国家の運営に欠かせない知識を担っていたわけです。ただし、この制度も安泰というわけではなく、765年(天平宝字9年)には陰陽寮の役人が流罪になるという事件もあって、けっこう波乱もあったようです。
中国から伝わった陰陽五行思想が、日本の政治に深く根づいたのはこの時代が決定打といえるでしょう。
吉備大臣入唐絵巻の一場面
中国の机に向かう吉備真備の姿。平安陰陽師と関連づけられる知識人の渡唐図で、呪術知識の習得を示唆
出典:Photo by LACMA / Wikimedia Commons - Public domain
遣唐使として唐に渡り、陰陽五行思想を学んだ学者です。聖武天皇の下、それまでの「呪禁師」を廃止して「陰陽道」を採用しました。留学で得た彼の知識は陰陽寮の制度整備や、天文・占星・測量といった理系分野にも応用され、国家事業の根幹を支える存在になっていきます。
個人の記録は少ないけれど、家系として代々陰陽を担ってきた人物が津守通(つもりのとおる)です。「津守連」の一族は古くから陰陽業務に関わっており、代々天文や暦、占術の知に長けていたようです。彼自身の具体的な記録は少ないですが、その名が陰陽師の一覧に残っていることからも、一定の地位を持っていたことは間違いありません。
遣唐使の藤原清河に、留学生として付いていき、陰陽五行思想を学びました。帰国後は陰陽道・天文に通じた官人として出世。陰陽頭や天文博士といった役職をこなした、かなり実務的な陰陽師だったようですね。ただし、764年の藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、最終的には流罪になってしまいました。
陰陽師と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、この平安時代。まさに陰陽道が完成した時期といえるでしょう。
中でも有名なのが安倍晴明。彼は天文観測と呪術の両面で力を発揮し、朝廷で重宝されました。彼の登場によって、陰陽道は「知識」から「技術」、さらには「儀式・呪術」のレベルへと発展します。
また、この頃から安倍氏と賀茂氏という2つの名門が陰陽道の双璧となり、流派としても整理されました。国家行事や儀式、さらには災厄除けや占いなど、陰陽師は国家の専門家集団としてフル活躍の時代です。
平安時代(前期〜中期)、文徳天皇・清和天皇の頃に活躍したといわれる陰陽師です。今昔物語集では、地神の追跡を呪を唱えて逃れたという話があり、呪術に長けていたと考えられます。
陰陽師・安倍晴明(菊池容斎画)
古事記、平家物語、今昔物語集など様々な古書に記録があり、最も有名な陰陽師です。遣唐使として唐に渡り陰陽道を学び、帰国後独自の陰陽道を築き上げました。
安倍晴明と芦屋道満(北斎漫画)
葛飾北斎『北斎漫画』11編より、陰陽師として知られる安倍晴明とその宿敵・芦屋道満が並ぶ場面
出典:Katsushika Hokusai / Wikimedia Commons - Public domain
清明のライバルともいわれている陰陽師です。清明とは違い陰陽寮に所属しない、フリーランスの陰陽師です。清明に劣らない呪術力があるとされました。フィクションでは、清明の敵役としてよく取り上げられます。
土御門家の家紋『揚羽蝶』
出典:Ageha inverted.svg / Public domainより
江戸時代に入ると、陰陽師の制度は土御門家が中心となって継承されていきます。幕府の許可のもとで全国の陰陽師たちを免状や職札で統制し、地方でも活動できるように整備されました。
おもしろいのはこの時代、陰陽師がビジネスとして機能していたこと。民間でも暦の販売や占術が広まり、庶民の生活にも陰陽の知識が浸透していったんです。
暦を買って吉凶を判断したり、子どもの名付けや結婚日取りに陰陽道を参考にしたりと、実用面がぐっと広がったのがこの時代の特徴です。
安倍晴明の末裔・土御門家の当主です。1842年に陰陽頭となり、江戸幕府崩壊後は新政府に働きかけ、陰陽寮の権限を拡大を行なうなど、陰陽道の発展に尽力しました。しかし努力むなしく彼の死後、陰陽寮は解体されてしまい、事実上土御門家最後の当主といえます。
そして近代化の波が押し寄せた明治時代。文明開化とともに、陰陽寮の廃止が断行されます。いわゆる天社神道廃止令により、土御門家をはじめとする陰陽師たちは公的な地位を失いました。
その後は一部が民間宗教や神道に転身しながら活動を続けたものの、国家からの支援も役割も完全に消滅。かつて国を動かす中枢にいた陰陽師たちは、完全に歴史の表舞台から姿を消したわけです。
土御門晴栄
明治期の『華族画報』掲載。陰陽師家門・土御門家の人物として、形代や呪具を管理した血統の一員
出典:Unknown author / Wikimedia Commons - Public domain
土御門晴雄の養子で、土御門家の家督を継いだ人物です。晴雄亡き後、陰陽寮は廃止され、江戸幕府より与えられていた土御門家の特権は次々と剥奪されました。陰陽師が史上最も不遇を迎えた時代といえるでしょう。